「痴呆老人」は何を見ているか (大井玄)

単純にいえば、認知症とは、知力、記憶力等のいわゆる認知的な能力が衰える症状である。しかし同時に、認知症は、人間とは何かという根元的な問題を、我々に問いかける存在でもある。


本書は、終末期医療の専門家である著者による認知症の入門書である。出版の経緯から、本書は、平易ではあるものの、類書より哲学的アプローチも試みられている。


この本で印象的なのは、まず、著者が認知症医療に始めて取り組んだときのエピソードである。著者は、長野県佐久市で、認知症の老人を診断する事業に参加した。だが、その宅診は決して容易ではなかった。


そこで見た半身不随の老爺やしょんぼり座っている認知症の老婆の姿は、老いというものを残酷なまでに著者に見せつける。そしてそれらの老人の姿は、著者の当時の能力主義的価値観の対極に存在するものであり、かつ、有効な治療法がないことから、自らの無力をかみ締めさせる。


結局著者は、アルコールに逃げるまでになり、ついには急性の抑うつ反応を呈するまでになる。


しかし、このような著者に救済の可能性を示したのも、認知症の老人たちであった。著者は、宅診のとき、ある老女に出会う。


ある時、着物姿の認知症の老女がぽつねんと薄暗い小部屋に坐っている姿があまりに哀れで、思わず彼女の横に坐り肩を抱きました。すると、彼女の目から、大粒の泪がとめどもなく溢れ出てきます。孤独を言葉で慰めるのが不可能なことは、部外者のわたしでさえ理解できました。彼女のような反応を示す認知能力の衰えた女性にその後何人も出会い、こじれた人間関係の最果てを見る想いがつのりました。


この時に肩を抱いた行為は、何も問題を解決しないどころか、著者の絶望を深めるだけだったかのように思える。しかし、その行為こそが、後の救いのきっかけだったのではないだろうか。


本書では、認知症について様々な視野から思索が積み重ねられる。たとえば、認知症老人には、意図的ではなくても彼らなりに生きようとする働きがある。著者はそれを「いのち」を維持するためと考える。つまり、世界や人格、世界との関係を認知症の老人が仮構するのも、いのちを維持するための一環である。このような考察も重要な示唆に富んでいると思われる。


しかし、この種の本で特に読者が知りたいと思われるのが、認知症の対処ではないだろうか。


たとえば、現在いわゆる「老老介護」が一般的になりつつある。介護自体も長期化し、地獄と形容されることもよくある。しかも、対症療法ならともかく、認知症薬を作るのは難しそうだ(「認知症薬」撤退相次ぐ=研究成果乏しく―米製薬大手(時事通信) - Yahoo!ニュース)。この圧倒的な現実の前にまず求められているのは、認知症の現実的な対策ではないのか。


だが、それは簡単に解決できる問題ではない。欧米型介護のように、高齢者の余命を、生物学的上限以上にいたずらに伸ばさないのが正しいのか。一方で、日本の介護のように、重度の認知症老人を胃ろうまでして延命させるのは、倫理的に問題はないのか。


さらに微妙な問題もある。認知症は、人間としての自立性を失う過程でもあり、その姿は、本書でもたびたび指摘されているように、見るものに恐怖の念を生じさせる。そしてその恐怖は、異質で厭わしいものに対する認識へと変わり、差別への一里塚となりかねない。


認知症に限らず、老人とは、私の未来の姿でもある。それにも関わらず、老人に対して時として嫌悪感や恐怖が生じることを、私は正直に言わなければならない。このとき私は、自分の心の中に、否定できない悪しきものの存在を感じる。それらの延長にあるのは、上にも書いたように、差別心である。すなわち、自分の心の中の悪しきものが、他者に対して牙をむける可能性もあるのだ。そう考えると本当に恐ろしい。


私は、そして我々は、これに打ち克つことができるのだろうか。


著者は、これらの問題に対し、重要な示唆を与えるのである。


本書で著者は、沖縄県島尻郡佐敷村で琉球大学の真喜屋氏が行った調査報告を紹介する。その報告書からここに孫引きする。


佐敷村のような敬老思想が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳におこっても、この人たちにうつ状態や、幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである。


そして著者は、以下のようにまとめる。


これらの事例から推察されるのは、「痴呆」は被害妄想、夜間せん妄、幻覚、攻撃的人格変化といった周辺症状(註: 最近は BPSD とも呼ばれる)が現れないかぎり、「純粋痴呆」として平和的共存が可能であり、その現象は地域全体で実現できる可能性がある、ということです。もちろん認知能力の低下は加齢とともに多くの人々に認められるとしても、周辺症状が現れないかぎり、あくまで「老いの過程にある正常な人間」として人生の終末までたどりつけるのです。


こうして、著者は、認知症老人が忌み嫌われたりすることなく、無事人生を全うできる一つの道筋を示すのである。私はその可能性とは、上で著者が思わず認知症の老女の肩を抱いた、その姿に象徴的に現れているように思われてならない。


もちろんそれは一つの理想であり、現実にある問題がすべて円満に解決するというものでもないだろう。しかしいずれにせよ、好むと好まざるとに関わらず、我々は認知症の存在、あるいは老いというものの存在を、受容するしかない。本書で指摘されているように、程度の差こそあれ、我々は皆「痴呆」であるからである。




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