アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス)

私が本書「アルジャーノンに花束を」を初めて読んだのは、随分前になる。本書は何年か前に新版となったのだが、しばらく前に、改めて読みなおしてみた。そしてそのとき、以前読んだとは違う思いをしみじみ感じた。


今から思えば、前回この小説を読んだときは、人生の喜びも悲しみも分かっていなかった。もちろんそれは、今でも分かっていないのかもしれないし、それどころか一生分からないかもしれない。いずれにせよ、その思いをエントリにしてみたい。


「アルジャーノンに花束を」の主人公は、チャーリイという知的障害を持った青年である。この物語で描かれるチャーリイの姿は、その知的障害の故に、世界にある苦しみと悲しみとを意図せずに浮き彫りにする。


チャーリイは、ストラウス博士の手術を受ける前は、社会が自分に向けてくる嘲笑や侮蔑に対して、気づくことができなかった。また、自分のせいで、両親が罪悪感や苦悩・恥辱を感じ、互いにいがみ合っていることも、チャーリイには分からなかった。しかし、チャーリイは、無意識にそれらを感じているのである。それは、普段はチャーリイの心に澱(おり)のようにたまって動かないのだが、ふとしたはずみで顔を覗かせるのだ。


それは、たとえば以下のようなときである。ニーマー教授とストラウス博士から今後の手術について問われたとき、チャーリイは、こう応じるのである(知的障害を持ったチャーリイが書き記したものなので、読みづらい):


キニアン先生(註: アリスのこと)もそういっていましたけれどもぼくわ痛い目にあってもかまわないのですぼくわじょおぶだしいしょけんめやるつもりですからとぼくわいった。かしこくしてくれるならかしこくなりたいのです。


私は、チャーリイのこの言葉に、涙を抑えることができなかった。チャーリイは、自分がもし賢かったら、より愛されるだろうと無邪気に思うだけである。しかしその思いは、出てくる言葉ほどには単純ではない。そこでは、チャーリイの声にならない叫びが聞こえてくるのである。それどころか、涙が、あまつさえ血が流れているのである。


そしてさらに、私にはある思いが浮かび上がってくる。チャーリイが求めているのは、救済である。しかし、この物語では、チャーリイにとって救いとは何なのだろうか?


ストラウス博士の手術は成功し、チャーリイは、高い知性を持つようになる。それは、読者にとっても分かりやすい、チャーリイの幸福な時期だっただろう。しかし、幸福とは凡庸なものだ。一方で、それは多くの読者から望まれているものでもある。実際、本書のあとがきによれば、著者のダニエル・キイスが出版社に持ち込みをしたとき、ハッピーエンドになるよう要求した編集者も何人かいたという。中には、チャーリイが天才のままアリスと結婚するような結末になるよう、要求した編集者もいたそうである。商業的には有能かもしれないが、愚かな編集者だと思わざるを得ない。この名作が台無しになる可能性があったことを考えると、本当にぞっとする。


この小説が名作となるのは、チャーリイが、いったん手に入れた天才を失わざるを得なくなってからである。それより、この小説は物語の強度を増し、普遍性を持った傑作となったのだ。特に現代では、その背景となっているのが、高齢化が進む社会における認知症の存在である。これにより、より多くの読者が、チャーリイの存在を身近なものとして痛感できるようになっているのである。


これは、キイスが新版の前書きで書いているエピソードからも実感できる。


日本人の初老の劇場プロデューサーからも(註: キイスが)手紙をもらったが、それにはこう記されていた。この小説のおわり近くで、自分こそチャーリイ・ゴードンなのだと思いました。なぜなら ――チャーリイ・ゴードンのように―― 自分は、長い人生の道のりで、知力をもって獲得し成就してきたものの大部分をいま失いつつあるからです、と。


この読者が認知症かどうかは不明であるが、その置かれている状況については多くの人が共感できるのではないか。そしてまた、私も、認知症の親戚がいる。私にとって、上の初老のプロデューサーも、チャーリイも、決して他人ではないのである。


こうして、私はまたいろいろと考え込んでしまう。知能がもし人間のアイデンティティの一つの大きな要素であるならば、知的障害や認知症の人々にとってそれはどういう意味を持つのか。それは、いつかは老いてくる私自身への問でもある。また、この小説で最も痛ましいのは、チャーリイの両親である。しかし、その両親の姿の前では、我々は言葉を失うことしかできない。


そして、私は改めて思うのである。結局、チャーリイには救いがあったのだろうか。チャーリイの人生は、我々の人生を象徴していると考えることもできるが、であるならば、チャーリイの人生に救済があるかどうかは、我々の人生も同じことがいえるということなのだろうか。


これらの問に、私は答えることはできない。


我々の人生には何の救いもないかもしれないし、それどころか絶望しかないのかもしれない。しかし、少なくとも言えることは、分かりやすい救済がない人生を生きていく我々に、ダニエル・キイスは、この物語によって花束を投げかけたのである。




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