永遠ということ
つい先日、はてな匿名ダイアリーに以下のような記事がありました:
不死を扱った作品が好き
https://anond.hatelabo.jp/20191029152636
その、はてなブックマークのエントリは以下のとおりです:
[B! 増田] 不死を扱った作品が好き
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191029152636
その内容について特にコメントすることはありませんが、ふと思ったことがありました。そこで、例によってまとまりはありませんが、記録としてエントリにしてみたいと思います。
不死といえば人類の見果てぬ夢ですが、死ねないということは、一つの罰にもなりえます。たとえば、磔にされ、生きたまま肝臓を鷲についばまれるプロメーテウスとか、山頂まで岩を運ぶよう命じられるが、あと少しで山頂に届くとき、その岩が転がり落ちてしまうシーシュポスなどは、死ねないがゆえにその苦行が繰り返されます。このような状況では、死は、一つの安息とも見えてしまいます。
一方で、ギリシャ神話におけるティターンなど、神々は不老不死と考えられることが多いと思われます。つまり、不死とは、神にのみ許されたものであり、それは、罰でもあるのです。以上のことは、どう考えられるでしょうか。
以前書いたことがあるように、私は特定の宗教に帰依していません。そこで無責任に考えてしまうのですが、神とは、本質的に、罰を背負った存在と言えるのではないでしょうか。
もちろんこのとき、私には、イエスの姿が念頭にあります。それは、人間の罪を一身に引き受けて、十字架で死んだイエスの姿です。そして、ルカによる福音書23章のことが頭に浮かんでくるのです。
39. 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。40. もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。41. お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。42. そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。43. イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
そして、後にイエスは復活しました。
しかし、このように神や不死のことを考えてきても、不信心な私は、それらの存在を完全に信じる(あるいは受け入れる)ことができません。というより、永遠なるものの存在を信じることができないのです。神の存在についてはおいておくにしても、少なくとも人類はいつかは滅びるでしょう。
それでも、神やある人を愛したという事実自体は、永遠に変わらずあり続けるのではないでしょうか。それは、十字架にかけられた犯罪人のひとり、それはとりもなおさず我々のことかもしれませんが、我々が、神や、愛する人に対して、「わたしを思い出してください」と言ったときの思いです。神が存在しなくとも、人類が滅びたとしても、その事実と思いだけは、永遠にあり続けるのではないでしょうか。そして、永遠というものは、そこにしかないように思えるのです。
コメント
コメントを投稿