よい教師とは

ブックマークを整理しているときに、良い教師について、ふと考えた。そのきっかけは、以下の記事(2023年5月20日)である。


教授時代の学生の評価は「最低」 日銀総裁が語った「伝える難しさ」:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASR5M7642R5MULFA02V.html

  

 日本銀行の植田和男総裁が19日、東京都内で講演し、総裁就任前に教授を務めていた共立女子大(東京都)で、学生からの評価が「最低」だったと明かした。そのうえで、複雑さを増している日銀の金融政策や経済環境を念頭に、「それぐらい分かりやすく伝えることは難しい」と語った。

(中略)

 19日の講演で植田氏は、共立女子大での自分の講義に対する学生の評価を紹介した。「ダラダラ話しているばかりで何も分からない」という声のほか、「授業料を返してほしい」といった厳しいものもあったという。


植田氏は東大教授等を歴任していることから、研究上では大きな業績を上げたのだと思われる。しかしそれでもその講義は、学生からの評判は必ずしも芳しくはなかったようだ。

その一つの理由として、よい研究者はよい教師とは限らないということが挙げられるだろう。

そうした点については、以前以下のようなエントリを書いた:


博士号取得者が高校教師になるということ
https://dayinthelife-web.blogspot.com/2013/03/blog-post_27.html


今日のエントリは、もう上記エントリで言いつくした内容の焼き直しである。それでもあえて屋上屋を架してみたい。


世間一般では、学問について誤解があるようだ。その背景にあるのは、普通の人が学問についてイメージする内容が、高校レベルで止まっているということである。大学進学率が50%を超えた現在になってもそれは変わらない。

高校まで学ぶ内容については、文科省が学習指導要領を定めている。その結果、検定を受けた教科書があり、 教師用指導教本・資料がある。そして大学入試まで、その指導要領に基づいた試験が行われる。いわば舗装された道ができているのである。

一方で、大学以降の学問には、そのような統一的な道はない。そこにあるのは多様性であり、時として無秩序である。なぜならば、世界と人生がそうだからである。本来我々はその混沌を受け入れなければならない。それが、生きるということだからである。高校までの勉強は、その準備のためにあるということもできるだろう。


そのような状況では、よい教師の基準を考えることは、それほど簡単なことではない。もちろん、ありきたりな項目をリストすることは簡単だろうけれども。

このようなとき、私は、湯川秀樹による、半生の回想記「旅人」のエピソードを思い出すのだ。それは、以下のようなものである。

湯川秀樹は、三高(旧制高校)の生徒のとき、立体幾何の試験を受けた。湯川は満点の自信があったのだが、なぜか一つの解答(証明)を間違いとして先生に採点されてしまう。その理由を、一人のクラスメイトはこう語るのである:


「それはね、 先生の証明のしかたと違うからだめだったんだ」(註:クラスメイト)
と言う。
「あの先生はな、自分の講義中にやった証明のとおりにやらないと零点なんだ」
 そう言われれば、私(註:湯川)はもう言うことはなかった。なるほど、私は先生がどう解いたかを覚えていなかった。 それで、別の解き方をしたのだった。私は、私の証明が間違っていなかったことに安心した。もう点数はどうでもよかった。 しかし数学に対する興味がいっぺんに冷却してしまった自分を、どうすることも出来なかった。
 私を数学の道から簡単に追い出したのは、この時の先生の採点の仕方だった。 少年はいきり立って、もう数学者には絶対になるまいと決心した。先生に教えられたとおりに、答えなければならない学問。 そんなものに一生を託すのは、いやだ。――


さて、この数学の教師はよい先生だっただろうか。おそらく、読者の大半は、ろくでもない教師と即答されることだろう。

しかし、より高い地点で考えてみるとどうだろうか。湯川に、数学ではなく物理の研究を志すようにさせたこの教師は、人類にとって良い教師かもしれないだったかもしれない。

もちろんこれは牽強付会、あるいは、為にする議論であって、正しいと主張するつもりはない。ただ私は、教師というものを考えるとき、どうも考えをまとめられなくなってしまうのだ。

それはおそらく、私自身が、仕事上あるいは私生活で、教師のような立場になるときのことを考えてしまうからだろう。私自身は教師ではないが。

そしてもう既に書くことがつらくなってくるのだが、教師の立場のとき、私は決して良い教師ではなかった。三高時の湯川の先生のように、生徒の人生に悪い意味で影響を与えてしまったこともあるはずだ。そう考えると、私には嘆く資格はないが、生きることはしんどいなと思うこともあるのである。



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