不機嫌ということと読書について

twitterでも呟いたのだが,中年になってくると,たとえば読書についても,残りの人生であと何冊読めるかといったことを,ぼんやりとでも考えるようになる(こうした思いについては,本ブログのエントリ「若い頃にしかできないこと」にも書いた).そうすると,浅ましい考えではあるが,面白くもない本を読む時間がもったいないと思うようになるのである.露悪的に下品に言えば,「外れ」の本を読みたくなくなるということだ.本だけでなく,音楽についても似たような思いがある.


一方で,映画,漫画,ゲームなどについては,そこまで切迫した思いはなく,「外れ」(失礼だが)にあたってもそれほど気にならない.気にせずに,どんどん新しいものにチャレンジしていきたいと思っている.これはおそらく,読書のほうが自分にとっては大事な趣味ということだろう.


こうした思いから,古典とよばれるものを意識して読むことが増えた.古典は,時代の風雪に耐えて生き残ってきただけに,(古色蒼然とはしていても)どれもそれなりに面白く,いろいろ考えさせることも多い.たとえば最近読んだものだと,ゲーテの「ファウスト」,「若きウェルテルの悩み」などが出色だった.これらは高校か大学のときに読んだものであるが,当時よりも今回の方がはるかに面白く感じてしまった.もともと昔は(今も?)頭が悪かったのかもしれない.


特にこのエントリでは,「若きウェルテルの悩み」から,本筋とはあまり関係ないが,いくつか引用してみたい.そのきっかけとなったのは,以下のような記事を読んだことである.


不機嫌がなぜいけないか。「ピカソは本当に偉いのか?」に書いてあった|篠田真貴子|note
https://note.mu/hoshinomaki/n/nd998e3cd1998


この記事はいろいろと考えさせるところがあったのだが,「若きウェルテルの悩み」でも,不機嫌について論じているところがある.ある場面で,ウェルテルは,不機嫌ということを手ひどく攻撃するのである.


われわれ人間はいい日が少なくって悪い日が多いとこぼすが,ぼく(注: ウェルテルのこと)が思うにそれはたいてい間違っている.もしわれわれがいつも,神が毎日授けてくださるいいことを味わう率直な心を持っていられたなら,たといいやなことがあっても,それに堪えるだけの力をもつことができるだろう.


不機嫌というやつは怠惰とまったく同じものだ.


「あなた(注: ウェルテルのこと)は不機嫌を悪徳だといわれるが,私はどうもそれはいいすぎじゃないかと考える」――「どういたしまして.自分をもはたの人をも傷つけるものが,どうして悪徳じゃないでしょうか.お互いに幸せにすることができないだけでももうたくさんなのに,めいめいが時にはまだ自分から自分に与えることのできる楽しみまでも,その上なお奪い合おうというのですか.(中略)むしろこの不機嫌というものは,われわれ自身の愚劣さにたいするひそかな不快,つまりわれわれ自身に対する不満じゃないんですか.また一方,この不満はいつも馬鹿げた虚栄心にけしかけられる嫉妬心と一緒になっているんですよ(後略)」



ここに書かれていることは,胸を打つ内容であることはもちろん,その普遍性について驚かざるを得ない.上記の note.mu の記事と比べていただきたい(なお,どちらが優れているということではなく,古典にある普遍性に着目したいだけである).ゲーテが若きウェルテルの悩みを発表したのは1774年のことで,240年も昔のことであるが,人間というのはそれほど進歩しないということなのかもしれない.だからこそ,時代の淘汰を乗り越えてきた古典というものが今でも面白いのだろう.



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