聖書を読む - 創世記読了

少しづつ読み続けている聖書であるが,ようやく創世記を読了した(2005年9月21日).遅まきながら,このエントリでは,その創世記について思うところを記しておきたい.


2005年9月1日から10月9日現在,ちょくちょくさぼっているものの,39日で121ページ,平均ほぼ3ページ/日といったところであるから,今のところは想定どおりのペースである.文語の聖書であり,その記録をブログにつけることを考えると,大体これくらいのペースが私にはちょうどいいようだ(前のエントリ参照).


創世記は,神エホバが天地を創造してから,ヨセフが死ぬまでの50章にわたる物語である.イスラエル民族が成立し,モーセが誕生する前までの期間に相当する.内容は大変起伏に富んでおり,誰でも一度は聞いたことがあるような有名な挿話が目白押しである.ここでは,その中でも最も印象に残った,アブラハムのエピソードについて書いてみたい.


アブラハム(もとはアブラム)は,ノアの10代目の子孫に当たる.ハランで一族と共に住んでいた.あるとき,アブラハムはエホバから啓示を受ける.


1. 爰(こゝ)にエホバ,アブラムに言たまひけるは汝の國を出て汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ 2. 我汝を大なる國民(たみ)と成し汝を祝(めぐ)み汝の名を大ならしめん汝は祉福(さいはひ)の基となるべし 3. 我は汝を祝する者を祝し汝を詛(のろ)ふ者を詛はん天下の諸(もろもろ)の宗族(やから)汝によりて福禔(さいはひ)を獲(えん)と (創世記12章)


あまりに唐突な,そして無茶といってもよいエホバの言葉である.しかし,アブラハムはその言葉に従い,妻サライ(後のサラ),ロト(アブラハムの弟の子),その他を連れて自らの土地を出発する.しかもこのとき,アブラハムは75歳という高齢であった.だが,アブラハムがエホバの言葉に少しでも疑念をもった様子はない.アブラハムは信仰の人であった.


このアブラハムの信仰の深さを物語るエピソードはいくつかあり,その最も有名なのは,エホバの試しに応じて,息子イサクを燔祭に奉げようとするものだろうか(創世記22章).しかし,私が最も感銘を受けたのは以下のような挿話であった.


高齢で子供がいないアブラハムは,もはや子宝に恵まれることはないと思われた.アブラハムはエホバに言う:


アブラム言けるは主ヱホバよ何を我に与んとしたまふや我は子なくして居り此ダマスコのエリエゼル我が家の相続人(あとつぎ)なり (創世記15章1節)


これにヱホバは答える:


ヱホバの言(ことば)彼にのぞみて曰く此者は爾の嗣子(よつぎ)となるべからず汝の身より出る者爾の嗣子となるべし (創世記15章4節)


エホバは,(高齢にもかかわらず)アブラハムに子供が生まれると言っているのである.また,アブラハムには,数えることができない星の数ほどの子孫ができるとした.アブラハムはエホバの言葉を受け入れる.


アブラム,ヱホバを信ずヱホバこれを彼の義となしたまへり (創世記15章6節)


短いが,信仰というものをこれほど完全に表現する一文が他にあるだろうか.ここにあるのは,アブラハムの,エホバに対する全幅の信頼と絶対的な帰依である.そして,神エホバはそれを祝福する.これこそが信仰の本質と思える.


創世記においては,信仰はもちろん,人間の喜び,悲しみ,嫉妬,憎しみ,欲望,狡猾等々,血のかよった人間が語られる.「聖書」というのは,神の御業を伝える聖なる書物という意味であろうが,少なくとも創世記に限っては,神代の人間の息遣いや鼓動が聞こえてきそうな物語である.創世記(聖書もそうだろうが)が,時代を超えてこれだけ長い間多くの人に読まれ愛されるのは,そういう所為もあるだろう.


また,私の読んでいる聖書は文語訳であるが,日本語の美しさを改めて認識することができた.詩篇や雅歌を読むのが今から楽しみである.


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