塔 (福永武彦)

人からすすめられて面白かった本(参照: 美しい星)についていくつか書いてきた(といっても三作品だけだが…).しかし,次に書いてみたい本がいま手元にないので,今回は別の本(福永武彦「塔」)について書くことにしたい.


「塔」は,福永武彦の初期短編集である.私が持っているものは河出文庫であるが,いま調べてみるとやはり品切・重版未定となっているようだ.非常に残念に思うとともに,入手しにくい本の書評ばかり書くことに恐縮している.


本書には,「塔」「雨」「めたもるふぉおず」「河」「遠方のパトス」「時計」「水中花」の計7作品が収められている.最初の短編「塔」が発表されたのは,終戦直後の1946年,福永が28歳のころであり,戦争の影を残す作品が多い.本書は,初期の短編集ではあるものの,後期のあの精緻につむぎ上げられた,完成度の高い福永武彦の世界を十分に窺い知ることができる.いずれの作品にも思い入れがあり,ここではどれについて書こうかと迷ったのだが,特に,「河」について書くことにしたい.他の作品についてもいつか書くかもしれない.


「河」の主人公の少年,「僕」は,その出生時に母親が亡くなって以来,田舎に預けられていた.そうしたときに,不意に父親が現れ,「僕」を引き取っていく.両親(ふたおや)の愛情を知らない「僕」は,実の父親と暮らしていく喜びに胸を膨らませる.だが,この希望はもろくも崩れ去る.父親は,「僕」のことを憎んでいたのであった.


父親と暮らすようになっても,「僕」は拒絶され,孤独の中にいる.そんなある日,「僕」は,父親の理不尽と思える叱責により家を飛び出して,河まで出て行く.それから,「僕」は淋しさのあまりたびたび河まで出かけ,堤防に腰をかけ物思いにふけるようになる.河のとうとうたる水の流れ,暗い水面,落日のまぶしい対岸は,少年の「僕」に,時の流れ,すなわち過去・現在・未来について考えさせずにはおかない.しかし,「要するに僕には未来というものがよく分らなかったのだ」.「僕」は,自分の未来が,この河のように暗く,悲しいものであるのではないかと恐れ,その心の震えを抑えることができない.


もし今日の一日が,と僕は考えた.今日の一日が明日に連なるように,また昨日が今日とたいして変ってもいないように,未来の時が今日のこの僕の体の中に既に刻みこまれてしまっているならば,ああ僕に何が出来るだろう.


父親が心を閉ざしてしまった原因は,「僕」の母親の死にあった.そして,父親は自らの憎しみの理由を,憑かれたように「僕」に話す.その言葉は,鞭のように「僕」の心に鋭い傷の痕を残すのである.


その日,泣きじゃくりながら河に出た「僕」は,折りしも振ってきた雨に高熱を出し,寝込んでしまう.「僕」は,熱にうなされながら,自分の思いを父親にぶつけずにはいられない.


…だけれど,一体どうして,どうしてそんなに僕は憎まれなければならないのか.一体僕が何をしたというのか.お母さんが死んだからといって,それがどうして僕の罪なのだろうか.僕の眼に涙が滲み出る.僕は唇を噛みしめた.そんなに僕が憎いの,お父さん.

 父親がぎょっとしたように僕の方に向き直り,どうした,と言いながら蒲団の端に手を掛けるのを僕は感じた.涙が急に溢れ出した.僕は嗚咽しながら,きれぎれに叫んだ.

─ お父さん,そんなに僕が憎いの,お父さん?


たとえ憎まれているとしても,その父親の愛を求めないではいられない子の,胸を突くような叫び.しかし,父親は「僕」のその想いに応えることはできない.なぜなら,人生のすべてをかけて「僕」の母を愛した父は,その母が死んだとき,泯(ほろ)びた人間となってしまったからである.


本書の解説にもあるように,この作品で語られる河,そして水のイメージは,後年の「忘却の河」,「廃市」,そして「死の島」に通じるところがあるように思われる.もちろん,「夢見る少年の昼と夜」「幼年」のような,少年期を題材した作品にも通じるだろう.これらの作品に共通して表れるテーマや,福永武彦特有の清冽な抒情は,私が愛してやまないものである.そういう意味で,この「河」も,私にとって忘れられない作品となっている.




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