飢餓海峡 (水上勉) - その2

 (その1からの続き)


それから10年の月日がたった.犬飼は,樽見京一郎と名を変え,強盗殺人で得た大金を元手にして,事業家として成功していく.そんなある日,八重は新聞で樽見の記事を見かけた.名前こそ樽見であるが,写真の面影は,どうしても犬飼多吉にしか見えない.八重は,胸を躍らせ,今までの礼を述べるため,樽見に会いに赴く.だが,樽見は,犯罪の露見を恐れ,自らが犬飼であることを認めようとしない.八重は歯を食いしばる.このときの八重の心情があまりにも切ない.


「…樽見さん,あたしはあなたにお礼をいいたかっただけなんです.あなたの下さったお金で,畑の在所の父の病気もすっかりなおりましたし,弟たちも一人前になって働けるようになりました.それに,あの『花家』の借金も払って,あたし東京へ出ることもあの時出来たんです.あたしが,いま,こうして,ここへこられたのもみんなあなたの親切からなんです.あたしはひと目あって,あなたがご立派になられたお姿を見たかった…そうしてお礼をいいたかった…それだけで嬉しいのです.犬飼さん,…樽見さん…」


(中略)


八重は樽見京一郎が動揺しているのをみた.男の狡猾さだ.八重は,急に胸もとをつきあげてくるような言葉を吐きだしていた.

「樽見さん,あたしは,あなたにいま嫌われるような女かもしれません.正直,むかしも,いまも,世間から指さされる軀(からだ)を売る娼妓ですものね.でもそれだけに,あたしは,男さんを軀で知るすべをおぼえているんです.あたしの記憶ちがいということもあるかと思います.でも,あたしが夢中になった人のことだけははっきりおぼえているんです.それだけは信じてください」



そして,八重のこの真情こそが,新たな悲劇を生む原因となってしまうのである.


刑事達の執念の捜査により,樽見は次第に追い詰められていく.その過程で,樽見京一郎の凄絶な生い立ちが明らかになる.樽見の不撓不屈の精神力,生命力の根源は何であったか.それは,悲惨ともいうべき貧しさにあったのである.


樽見の生まれた家は,京都府の熊袋という貧しい村であった.しかも,樽見の父は,本家に輪をかけて貧しい分家である.熊袋における分家の生活は,あまりにも過酷なものであった.ここでやや長くなるが,その様子を引用しておきたい:


「…熊袋では,次男,三男,四男と子ォが生れてくると,この処理に困って,他郷へ出すことにしたわけです.ところが,他郷へ出るのがイヤで,あるいは,他郷へ出ても食べてゆけないような次男,三男が出来ると,困ってしまいます.何しろ,田畑に限界があるんですからな.そこで,分家というと,屋敷の隅に小さな家をたてて,次男あるいは三男を住まわせます.畑や田圃は,いちばん遠いところを与えます.つまり,芋や麦をつくるのに,一ばん苦労の多い田をあたえたわけなんですよ.熊袋の畑をご覧になりましたか?」

(中略)

「あのてっぺんの畑は蓑一枚ぐらいしかない畑です.雨がふると,せっかく肥料をはこんだのに,雨水は肥料を下へ流します.すると,下方の畑ほど肥料がたまるわけで,次男や三男は肥料をてっぺんへ運んでも,下方の長男の畑をうるおすように出来てるようなあんばいでしてな.それはもう…やせた畑なんです.だから,作物も出来がわるい.京一郎さんの家は分家でしたからな,まだ,そのほかに汁田圃もあったでしょう」

「汁田といわれ軀ますと」

「川底にできた,沼のような田圃です」

(中略)

「…熊袋にはそんな沼の底のような冷たい田圃がいくつもあります.沼のふかさは,つかると肩まできます.手の切れるような冷たい水です.その沼田の中へ,まるで軀を埋めるようにして,田植えをするわけです.軀じゅう冷えて,一日つかっていると,真夏でも凍てるようだといいます.そんな汁田で何ほどの稲がとれましょう.しかし,次男,三男はつくらにゃならん.喰うてゆかねばならん.気の毒なはなしですが,たくさんの子ォのうまれた家は,そのような方法で子供を処置したといえますな...」


現代の我々からすれば,想像を絶するほどの過酷さ,貧しさである.我々は,このような生活が決して遠い過去のものではないことに思いをはせる必要があろう.


樽見京一郎の父は,このような過酷な環境で体を壊し,早世する.また,このような環境で,樽見の母親は女手一つで樽見を育てた.樽見は,何とかしてこのような環境から抜け出し,母親に楽をさせてやりたいと願った.樽見の不屈の精神は,こうして涵養されていったのである.


だがついに,樽見京一郎は,追い詰められる.このとき,樽見京一郎と刑事達,彼等はすでに,犯罪者とそれを追う刑事の関係にはない.皆すべて,一人一人の人間として,全身全霊をかけて対峙していくのである.このときの水上の筆致は,まるで何かが乗りうつったかのように凄みを増していく.そして,最後に樽見は,一人の人間の真摯な,純粋な思いに屈服する.


この作品を読むと,私はいつも,人間の運命や,人間と社会を取り巻く抗いがたいものに,圧倒されるような思いがする.そして,このような作品を生み出した人間の力に(もちろんこの作品を生み出したのは水上勉であるが,そこには人知を超えたものが働いているような気がしてならない,これは言い過ぎだろうか),創造するということに,畏怖のようなものを感じてしまうのである.




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