桜の樹の下には (梶井基次郎)

ここ数年ほどは,新しい小説を読んでも感動することがほとんどなくなった.むしろ,専門書を読むほうがはるかに面白く感じるようになっている.自分が感受性の衰えた無機質な人間になっていくようで,さびしいような思いがある.


こうしたとき,よく読み返すのが,梶井基次郎と中島敦の作品である.このエントリでは,梶井基次郎の「桜の樹の下には」について書いてみたい.


この,わずか3, 4 ページにすぎない小説が,読む者を惹きつけてやまないのは何故だろうか.この作品の冒頭の一文はあまりにも有名である.


桜の樹の下には屍体が埋まっている!


この一文を読んだ読者は,すぐに日常的な空間から引き剥がされてしまうことだろう.そして,読者は,桜が「灼熱した生殖の幻覚させる後光」のようなものを撒き散らしながら美しく咲き誇る理由を,直ちに理解することになるのである.


 お前,この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ,一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい.何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得がいくだろう.

 馬のような屍体,犬猫のような屍体,そして人間のような屍体,屍体はみな腐爛して蛆(うじ)が湧き,堪(たま)らなく臭い.それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている.桜の根は貪婪(どんらん)な蛸(たこ)のように,それを抱きかかえ,いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて,その液体を吸っている.

 何があんな花弁を作り,何があんな蕋(ずい)を作っているのか,俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が,静かな行列を作って,維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ.


もはやこの世界には,音もなく狂ったように咲き乱れる桜と,桜に体液を吸い取られる腐乱した屍体とだけが存在する.そこでは時間すら存在しない.蛆のわいた屍体は,水晶のような液体を尽きることなく垂れ流す.その液体を桜は吸い上げ,神秘的に爛漫に咲き乱れる.その対照はあまりにも鮮烈で残酷であり,読む者に狂気をもたらさずにはおかない.桜の花が美しく咲き乱れるのは,腐臭を発する屍体を栄養にしているからである.それ以外の理由はありえない.死をろ過するのではなく,それをすべて吸い尽くすからこそ桜は美しいのである.


そしてそれは,永遠に同じように繰り返される,官能的で背徳的な営みである.そのような原初的な世界では,生命の輪廻や連鎖は存在しない.そこでは,桜の美しさのみが君臨し,それによって他のものは完全に支配されるのである.現実の世界においては,ここまでの完全な支配はありえないだろう.そして,その完全なる支配がなんと甘美であることか.すなわち,桜の支配するその世界にあるもの,それは,美と性と死に他ならないのである.


読み進めていくうちに,読者は,次第に不安な狂気のような思いにとらわれていくのではないだろうか.そして,その腋から出る冷汗がまるで精液のようだと思われるとき,作者の不安と憂鬱は完成するという.この前段では,産卵後屍体となった何万匹もの薄羽かげろうに対する,作者の陰惨な思いが語られる.作者の言う憂鬱の完成は,その延長上にある.


しかしながら,私にはそこでの完成は真の完成であるようには思えないのである.作者の作り出した世界は,もはや作者すら支配できない独立した宇宙となっている.桜の透徹した美のみが支配するその宇宙においては,われわれ読者と,さらには作者をも含め,すべてのものが屍体となって永遠に桜に自らの液体を吸い込まれるようになるとき,そのときのみ,その宇宙は完成するように思われるのだ.


・・・


梶井基次郎の作品は,一種独特の諧謔もあるが,病気,屈折したコンプレックスや性の話,絶望,焦燥,退廃等々,読んでいくうちに息苦しくなってくるようなモチーフに満ちている.最初に読んだのは新潮文庫「檸檬」だったと思うが,有名な3,4の作品を読んだだけで,途中で投げ出してしまった記憶がある.


だが,年齢を重ねるにつれて,またささやかながらも様々な経験を積み上げていくうち,梶井の投げかけるものに(少なくとも)目を背けないでいられるようになったような気がする.そして,折に触れて,その作品を読むようになってきた.その中でも,「冬の日」は,最も感銘を受けた小説である.このブログでも,いつかそれについて書いてみたい.




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