丸善の二階 (「東京の三十年」所収,田山花袋)

 数日前に以下のような記事があった.


中京、「檸檬」の果物店閉まる 梶井基次郎の小説 4代目急逝で
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009012700037&genre=K1&area=K00


梶井基次郎「檸檬」の舞台、京都の果物店「八百卯」静かに幕
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090127-OYT1T00650.htm


以前,このブログで梶井基次郎に触れたこともあり(桜の樹の下には (梶井基次郎)),感慨深く思った.そこで檸檬をあらためて読み直したのだが,その舞台となる丸善について少し思ったことがあるので,ここに書いておきたい.


今からはなかなか想像できないけれども,明治から大正にかけて,丸善は西洋文化を伝える窓口として,特別な存在であったようだ(wikipedia のエントリ: 丸善).夏目漱石の小説など,明治・大正の作品を読むと,丸善が出てきたり舞台となったりするものによく出くわす.その中でも最も有名なのは,上記の檸檬(京都の丸善であるけれども)であろう.しかし,丸善について私がいつも思い出すのは,田山花袋の「東京の三十年」所収の,「丸善の二階 」という短編である.


私は田山花袋については蒲団など有名なものを読んだ程度であるが,この「東京の三十年」という作品には心惹かれるものがあり,何度か読み直した.「東京の三十年」は,花袋が明治の初めに東京に出てからの三十年を自伝的に追憶したもので,文学に対する燃えるような情熱を抱く青春時代の花袋や,島崎藤村,国木田独歩など若き文学者の群像,明治の東京の社会や風俗などがありありとした形でつづられている.田山花袋の作品の中では最も好きなものなので,いつかはこのブログでちゃんと書いてみたいけれども,ここではその中から「丸善の二階」という短編について簡単に触れてみたい.


「丸善の二階」には以下のような記述がある:


 十九世紀の欧州大陸の澎湃(ほうはい)とした思潮は,丸善の二階を透して,この極東の一孤島にも絶えず微かに波打ちつつあったのであった.

 丸善の二階,あの狭い薄暗い二階,色の白い足のわるい莞爾(にこにこ)した番頭,埃だらけの棚,理科の書と案内記と文学書類と一緒に並んでいる硝子の中,それでもその二階には,その時々に欧州を動かした名高い書籍がやって来て並べて置かれた.(中略)

 それをどういう人が買ったか.またそれをどういう人が読んでどういう感じを起こしたか.

読んでしまって何とも思わずに書棚の中に徒(いたず)らに並べられたか.それとも反古(ほご)にされて捨てられてしまったか.しかしそのまことの種は ―― 人類の中心に触れた種は,捨てられても捨てられてもついに捨て了(さ)られてしまうものではなかった.ゾラのあの強いナチュラリズム,イブセンのあの深い象徴を透して見た人生,ニイチェの強い大きな獅子吼,トルストイの血と肉,「親々と子供」の中にあらわれた Nihilism,ハイゼの女性研究,そういうものは,いくら埋めても埋めても埋めきってしまうことの出来るものではなかった.極東の一孤島の新しい処女地には,いつ蒔かれるともなくその種は蒔かれていった.


当時の人々にとって,丸善がどういう存在であったか,これほど生き生きと表現する文章はあまりないのではなかろうか.現在と異なり,西洋の本や文化を知ることが困難であった時代,それらに対する人々の思いは乾くようなものであったろう.その時代,やっとの思いで手に入れた西洋の書籍を,はずむ思いで丸善から持ち帰り,夢中になって読んだ当時の人々の震えるような喜びというのは,現代の情報過多ともいえる時代を生きている我々には味わえないものなのかもしれない.いずれにせよ,「丸善の二階」の上記の文章を読むと,本を読むことの喜びや,明治大正の時代に対する郷愁のような感情など,いろいろな思いがわいてくるのである.





追記(2013年5月18日)


丸善京都店が,10年ぶりに再オープンするとのことです.


丸善京都店、10年ぶり復活 小説「檸檬」の舞台
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG17036_X10C13A5CR8000/


2013/5/18 0:56日本経済新聞 電子版


 京都市中心部の河原町通にあり、大正期の作家、梶井基次郎の小説「檸檬(れもん)」の舞台として市民に長年親しまれながら2005年に閉店した書店「丸善」が15年春、復活することが17日分かった。旧店舗近くで建て替え中の専門店ビル内に再オープンし、以前に扱っていた洋書や文具を充実させる。




追記(2015年8月21日)


上記記事の続報がありました.


丸善京都本店:10年ぶり再開へ 小説「檸檬」の舞台

毎日新聞 2015年08月18日
http://mainichi.jp/select/news/20150819k0000m040080000c.html


 作家・梶井基次郎の短編「檸檬(れもん)」の舞台となり、2005年に閉店した書店「丸善京都本店」(京都市中京区)が21日、10年ぶりにオープンする。


 専門店ビル「京都BAL」の地下1、2階で、蔵書数は地域最大級の約100万冊。特製のレモンメニューがあるカフェも併設する。


 10年前の閉店時には店にレモンを置く客が続出した。新店舗には小説「檸檬」の特設コーナーわきにレモン入りのかごを置くほか、期間限定で「レモン置き場」も設置。こだわりが、伸び悩む書籍販売回復の一助になるか。




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