仰臥漫録 (その2) (正岡子規)

仰臥漫録 (その1)の続きのエントリである.だいぶ時間が経ってしまった.


私の個人的な話になるのだが,いつも,仰臥漫録を読み終えてしばらくしてから心に残るのは,律という女性の存在なのである.それは,漱石の「坊っちゃん」を読み終えたとき,清という老女の存在が忘れられないものになっているのと似ている.


律は,子規の妹である.律がどんな女性であったか,それは,一方的な観点からではあるものの,子規の写実的な記述が余すところなく伝えている.


律は強情なり 人間に向つて冷淡なり 特に男に向つて shy なり 彼(注: 律のこと)は到底配偶者として世に立つ能(あた)はざるなり しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人としてなりをはれり

(中略) 律に勝(まさ)る所の看護婦即ち律が為すだけの事を為し得る看護婦あるべきに非ず

(中略) しかして彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費(ついや)さざるなり 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事はをはるなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し


律は,結婚に失敗して,実家に戻っていた.そして,その母とともに,子規の看病に明け暮れるのである.しかし,子規は,このような律の強情ぶり,癇癪持ちなどの欠点を,口をきわめて罵倒し,「余は時として彼を殺さんと思ふほどに腹立つことあり」とまで述べる.その一方で,子規は律の将来を心配し,「彼を可愛く思ふ情に堪へず」とその思いを吐露する.


仰臥漫録では,この骨肉の愛憎が,子規の描写力によって,我々の心に刻み込まれる.前回のエントリで述べたように,大量の食事を辞めることなく,激痛に泣き叫びながら闘病する子規の姿は,まさに餓鬼を思わせる.その一方で,香の物だけのおかずで満足し,「終に兄の看病人としてなりをは」るであろう律の姿は,残酷なまでに克明な印象を読者の胸に植え付けるのである.


そして,私は思うのである.人間の長い歴史の中で,律のように生きざるを得なかった女性がどれくらいいることだろうか.それを思うと,これに限った話ではないのだが,私は,男として生きていることに,また,現在の日本に生きていることに,ある種の後ろめたさのようなものをいつも感じるのである.



仰臥漫録は,読む者の心に様々な感銘を与えずにはおかない.そのため,この書について述べる文章もまた,胸を打つものが多い.その中でも,寺田寅彦の「備忘録」という文章について,このエントリの最後に触れておきたい.


寺田寅彦は,仰臥漫録について,以下のように言及している.


 この病詩人を慰めるためにいろいろのものを贈って来ていた人々の心持ちの中にもさまざまな複雑な心理が読み取られる.頭の鋭い子規はそれに無感覚ではなかったろう.しかし子規は習慣の力でいろいろの人からいろいろのものをもらうのをあたかも当然の権利ででもあるかのようにきわめて事務的に記載している.この事務的散文的記事の紙背には涙がある.

 頭が変になって「サアタマランサアタマラン」「ドーシヨウドーシヨウ」と連呼し始めるところがある.あれを読むと自分は妙に滑稽を感じる.絶体絶命の苦悶でついに自殺を思うまでに立ち至る記事が何ゆえにおかしいのか不思議である.「マグロノサシミ」に悲劇を感じる私はこの自殺の一幕に一種の喜劇を感得する.しかし,もしかするとその場合の子規の絶叫はやはりある意味での「笑い」ではなかったか.これを演出しこれを書いたあとの子規はおそらく最も晴れ晴れとした心持ちを味わったのではないか.


最初にこの寅彦の文章を読んだとき,私は衝撃のようなものを受けた.そして,子規のあの闘病の様子に滑稽を感じるというのは,不謹慎ではないかとすら考えた.


しかし,よく考えてみれば,私が感じた衝撃の理由は,そういうことではなかったようだ.私は,上記の凄惨な場面で,寅彦の言うような笑いといった感情は感じるはずがないと思っていた.しかし,できるかぎり虚心になって考えれば,子規の姿を笑っているような感情が私になかったとは言えない.それを寅彦に指摘されたかのようになって,衝撃を受けたのではなかったろうか.


それ以来,私は,仰臥漫録を読み返すたび,この壮絶な子規の生きざまに感じられるような,笑いの意味について考えざるを得なくなった.寅彦は,この笑いにある種の救いのようなものを見ているようだ.それもまた一面の真実ではあるかもしれない.私はまだ確たる答えがあるわけではない.ただ,この笑いのようなものは,人生の深淵と深く結び付いているのではないだろうか.理由は説明できないが,そう思えてならないのである.



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