暖簾 (山崎豊子)

小説家の処女作にはその作家のすべてが含まれるといったことは,よく言われることだ.もちろんすべての小説家にあてはまることではないけれども,そのように考えてみると,何人かの小説家のことが思い浮かんでくる.ここでは,そうした小説家であろうと私が考える,山崎豊子と,その処女作「暖簾」(のれん)について書いてみたい.


私が初めて山崎豊子の小説を読んだきっかけは,詳しい状況は忘れたが,大学のころ,友人が白い巨塔をすすめてきたことであった.それから山崎の長編はいろいろ読んだが,内容はすっかり忘れてしまった.ちなみに,私には,フジテレビで放映されたドラマの白い巨塔 (Wikipediaの記事) が印象に残っている.最初から最後まで見たテレビドラマはこれが最後で,今後もう二度とないかもしれない.恥ずかしながら,年甲斐もなくぼろぼろ泣いてしまう回もあった.特に,唐沢寿明はいい役者だと思った.


話をもとに戻すと,「暖簾」は山崎豊子の処女作で,昭和32年に出版された.終戦から12年たち,高度経済成長が始まったころである.それでも戦争の傷跡は当時まだ生々しかったのではないか.このような時代背景のもとに,「暖簾」は出版間もなくベストセラーになったという.まさに,ベストセラー作家としての山崎の出発点である.


「暖簾」は,明治29年に淡路島から大阪に出てきて,それから昆布商人としてのしあがった吾平が,戦争ですべてを失い,その後,吾平の後を継いだ息子孝平が,店を再興するまでの物語である.こうした父子二代に渡る大河ドラマのような筋書きも,まさに後の山崎作品のいくつかの長編ストーリーを彷彿とさせる.


そして,この「暖簾」で描かれるのは,著者が言うように,大阪船場の「理想の」商人である.大阪で生まれ育った山崎は,大阪商人に深い思い入れがあったのだ.そしてそういった大阪商人の象徴が,暖簾なのである.


こうした大阪商人と,浪花屋の丁稚時代の吾平(このときの名前は吾吉)の様子を,以下に引用してみよう.


(中略,吾吉は)旦那はんや,番頭はんの走り使いに追われた.「吾吉っとん」と声がかかると間髪を容れず,「ヘーイ」と答え,用事をいいつかるまでに腰を上げてつま先だち,聞き終わるや,草履をつっかけて表へ飛び出す.その機敏なこつを呑み込むまでは,ノロマ!ドンクサイ!と口汚く罵られた.


ある日,吾吉が蔵から昆布を運び出すとき,ほんの一つまみほどの昆布が箱からこぼれた.はっと思う間もなく,うしろから大きな手が飛んだ.耳が裂けるような暗やみの中でふりかえると,旦那はんの眼が容赦なくたちふさがっていた.

「阿呆,何とぼけとおる,わいら何のおかげでごはん食べさして貰うてるのや,昆布のおかげやぜェ.そない粗末なことして大阪一の商人になれると思てんのかァ」


上記の引用部にはいくらかは戯画的な誇張があるかもしれないが,明治やそれ以前の時代の丁稚奉公はこうしたものではなかったろうか.このような丁稚奉公がいいのか悪いのか,一概には言えないのかもしれないが,少なくとも私はこうした状況を単純に懐かしむような気にはなれない.むしろ,もはや中年となった今では,昔の子供たちのこうした状況には,大げさに言えば,胸をつくような思いがするのである.


そして,辛い奉公を続けてきた吾吉は,やがて,浪花屋本家から暖簾分けされ,吾平という本名で商人として独立することになる.ここでの暖簾分けとは,文字通り暖簾を貰って分家の店をたてることであり,また,大阪商人としての誇りを暖簾として受け継ぐということであった.作者の言葉を借りれば,暖簾は,「大阪商人の生命であり,また庶民の旗印」でもあったのだ.


吾平はこうして独立するのだが,その人生はすべて順調とは決して言えなかった.だが,いかなる苦境にあっても,吾平は不屈の気概と大阪商人の誇りを持って乗り越えようとするのである.たとえば,以下のような場面がある.昭和9年に大阪を襲った大水害で,吾平の昆布工場とその昆布は水浸しになり,残ったのは借金だけになった.吾平は,重い足を引きずって銀行に金策に赴くのである.


(吾平は)その日も利休下駄を冷たい銀行の床石にきしませて,支店長を訪れた.

「浪花屋はん,銀行いうもんは確かな堅いものにしかお金お貸しでけまへん.あんたは家を抵当にして借金して建てた工場がやられたところやおまへんか.それに今度は一体,なにを抵当にして借金しはりますねん」

「抵当だっか――」

思わず声に力がこもった.

「おます,おまっせェ」

吾平の眼は一瞬,怒気を含んで相手を見据えた.


もはや無一文の吾平が抵当として差し出したものは,何であったか.そして,銀行の支店長はそれにどう応えたか.ここがこの小説の中盤のクライマックスであり,ぜひ小説を読んでいただきたいと思う.


……


山崎豊子がこの小説を書き始めたのは,20代で新聞記者を務めていたころであった.それから,闘病生活や忙しい仕事に中断されながら,7年をかけてこの小説を書きあげたという.つまり,戦後しばらくしてこの小説を書き始めたことになり,そこにも作者の思いを想像することができるかもしれない.


このような小説「暖簾」に対して我々が感動するのは,明治,大正,昭和の時代を気骨を持って生き抜いた大阪商人の姿と,それに対する作者の熱い思いがあるからなのである.大阪商人が代々その誇りを表す暖簾を受け継いでいったように,我々は,小説の形をとった「暖簾」によって作者の思いを受け継ぐことができるのである.


山崎豊子は,ベストセラー小説家ではありながら,毀誉褒貶の大きい作家である.その作品についても賛否両論あるだろう.それでも,私は,山崎豊子のすべてがあるであろうこの小説を愛するのである.



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