名前について
年度末で忙しく,本ブログも放置気味である.しかし,twitter 等で,更新を楽しみにされている方がいらっしゃることが分かったので,まとまりがない内容であっても,とにかく更新を心がけるようにしたい.今月は,少なくとももう一つ書いてみたいと思っている.
そこで本題であるが,はてなブックマークにあがったエントリで,いわゆるDQNネームに関するものを見かけた.DQNネームとは何であるか,また,具体的にはどのエントリか,といったことについては,あまり愉快な内容ではないので,これ以上は言及しない.ただ,そのエントリを読んで,名前をつけること,名前を呼ぶこと,そして,そもそも名前というのは何であるか,といったことについて考えることがあったので,ここに書いてみたい.
名前というのは不思議なものだ.単純に考えれば,それは,人を区別するためのラベル,識別子にすぎない.しかしながら,名前というものは,それにおさまらない神秘性をもつのである.これは以前,はてなの某日記にも書いたのだけれども,名前の持つ神秘性ということについて思いを致すとき,私は,ゲド戦記のことをいつも思い浮かべてしまうのである.
このゲド戦記の世界観について,Wikipedia から引用してみる (Wikipedia: ゲド戦記):
この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島世界(アーキペラゴ)・アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。
アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合う。
名前というものが持つ魔力や神秘性を,これほど見事に生かした物語は他にないのではないだろうか.なお,このような名前に関するタブーというものは,世界各地にあったらしく(Wikipedia: 諡名の,「実名敬避俗」の節を参照),ゲド戦記ももともとはそれを参考にしたものかもしれない.
そこで,このような名前をつける,あるいは,名前を呼ぶということの神秘性については,古来,さまざまな文学作品がそのことをテーマとしてきた.それについては,いろいろと思い浮かべる作品があり,今後このブログでおいおい書いていきたいと思うのだが,その一つとして,三好達治の「わが名をよびて」という詩をあげてみたい.この詩は,三好達治の詩の中でも,私が最も愛するものの一つである.
わが名をよびて
わが名をよびてたまはれ
いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ
あはれいまひとたびわがいとけなき日の名をよびてたまはれ
風のふく日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
よびてたまはれ
わが名をよびてたまはれ
この詩は,詩集「花筐」に収められている.この詩集は,三好達治から,萩原朔太郎の妹アイに捧げられた,愛の花束であったという.
必ずしもそうでないことは理解しているが,それでも,人の名前を呼ぶという行為自体に,既に,愛があり,喜びがあり,そして,官能がある.さらに,名前を付けるということは,名前付けられた人を支配するということであり,また,所有することであるといえるのではないか.その支配から独立したとき,人は大人になっていくのかもしれない.
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