若い頃にしかできないこと

先日,若いときにしかできないことなどないという趣旨のエントリを見かけた.それに反論するつもりはないのでリンクは貼らないが,ちょっと思ったことがあるのでここに書いてみたい.


確かに,若い頃にしかできないことなどないだろう.特に勉強はそうである.今のような高度な社会に生きている我々は,好むと好まざるとに関わらず,一生勉強を続けていかなければならない.むしろ,人間とは勉強していく存在であり,勉強すること自体に喜びがある.このブログでも,以前そのような趣旨のことを書いた(参照: 「人間はどんなところでも,どんな時でも何歳からでも学ぶことができる」).


しかし,人生という,有限の時間のくびきの下に生きている我々は,やりたいことを全てやることはできない.自ずと,やることとやらないこととを選択せざるを得ないのであり,それは,年齢によっても違ってくるのである.それは,年齢というものが,人生の残り時間をも表すものであるからである.


実際,中年になった私は,人生の残り時間を意識する機会が多くなった.頭の能力や体力,集中力はいつまでも今のままであるというわけにはいかない.むしろ,落ちていくばかりである.すると,ほぼ今のような状態で働けるのはあと何年か.10年か.20年か.少なくとも,Knuth のように(参照: 「D. E. Knuth (クヌース) について」),80歳近くになってまで,あのような理論的専門書を書き続けるといったことは無理であろう.


そうでなくとも,理系は若い頃が勝負である.あまり上品な物言いではないが,研究をしなくなった高齢の研究者に対して,あがってしまったとか,年だから数式を追えなくなった,などといった陰口を聞くことはある.自分でも,現在までの業績と,人生の残り時間を考えて,あと何本の論文を書けるか,などといったことを考えるのは愉快な気分ではない.


このような状況では,新しいことを始めること自体に心理的な抵抗がある.これをやることで,今後どれだけ時間を取られてしまうのか,といったことをまず考えてしまうのだ.大げさに言えば,そうした思いは,恐怖に近い.そして,そう考えることによって,新しいことを始めることが億劫になってしまう.私にとってそれは,たとえば,新しい外国語の学習,楽器の演奏,ゲーム(TVゲームでもボードゲームでもなんでも),などである.いずれも,習得やプレイ自体に膨大な時間がかかるものであり,それを思うとなかなか踏み出せない.


一方で,若い頃から続けてきた趣味は,生活の一部であり,時間が取られることは苦にならない.たとえば読書であり,映画鑑賞,将棋,コンピュータ関係,ネット等々である(仕事も趣味の一部と言えないこともない).これらはいくらでも時間がかかるものであり,また,それぞれそれなりに私の人生を豊かにしてきた.そして,それらを長く続けてきたこと自体が,その楽しみをさらに大きくさせていくものであるし,自分の中に確かな感覚として残るのである.まあしかし,映画は最近はゆっくり見る時間もないし,ネットはさすがに無駄が大きいので,控えたほうがいい気もするのであるが….


そこで,若いときには,手当たり次第にいろいろなことにチャレンジすることがよいと思う.そういうことができるのも若い頃だけだし,何年か続けていくと,自分のやりたいことが分かってくるものだ.そうして残ったものこそが,人生をより彩るものにしていくのである.



P.S.

ここまで書いてきて,我ながら説教くさいエントリであると思い,続きを書く気が無くなった.実際,実生活でも,気づかぬうちに説教くさい話ばかりしているような気がする.若い頃はこうした説教くさい話をするおっさんに反感を持ったものだが,知らずに自分がそういう存在になっていることを思うと,苦笑せざるを得ない.しかし,ここに書いたことは自分の偽らざる気持ちでもあるし,せっかくここまで書いたのだし,まあこのままエントリとして残しておきたい.



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