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職業がすたれるということ

しばらく前に(今も?),「10年後に食える仕事 食えない仕事」 (渡邉正裕著)という本がネットで話題になった.本屋でも平積みになっていたり特設コーナーがあったりして,だいぶ話題になったようだ.それで,ずいぶん前に  NPR  というサイトで読んだ以下の記事を思い出した.ネットでの話題をネタにして全く関係のないエントリを書くというのは私の悪癖であるが,例によって思ったことを書いてみたい. The Jobs Of Yesteryear: Obsolete Occupations (拙訳: 過ぎ去りし年の仕事: すたれてしまった職業) http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=124251060 上記の記事では,かつて人が行っていたものの,今ではコンピュータや自動機械にとって変わられた,いくつかの仕事がピックアップされている.いろいろと考えさせられる内容であるので,このような,今となっては廃れた職業(アメリカで)について,上記の記事からいくつか紹介してみたい.なお,上記の記事では画像を保存できないので,以下にはネットで検索した別画像をあげておく. Lector この lector (lecturer ではない) というのは,訳しづらいが,読師とでも訳すようだ.もとは,教会で,聖書等を読む人のことである.フロリダやニューヨークの葉巻工場では,かつて,lector とよばれる者がおり,労働者に向かって,新聞などを読みきかせていたという.今ではすたれてしまったが,もともとはキューバで始まった職業らしく,キューバではまだこのような仕事があるという. Pinsetter 現在,ボーリング場でのピンのセットは完全に自動化されており,また,点数を表示する頭上のモニタなども,まるでパチンコかアーケードゲームかのように非常にエンターテインメント性が高いものになっているが,昔は,このボーリングのピンのセッティングも人手で行っていた. Iceman 1940年代に冷蔵庫が普及する以前は,iceman と呼ばれる仕事があり,各家庭に,10kgからときには40kgにもなるような氷の塊を届けていたという.もちろんこのような職業も今となっては廃れてしまった. Lamplighter ニューヨークではかつて,ガス灯にはしご...

二,三羽 ―― 十二,三羽 (泉鏡花)

昨日,以下のエントリが話題となっていた: スズメたちの会話が聞こえてきそう!スイスの郵便配達員のおじさんが庭で撮影した対話するスズメたち http://karapaia.livedoor.biz/archives/52075488.html このエントリを読んで,泉鏡花の短編「二,三羽 ―― 十二,三羽 」を思い出した.例によって,上記エントリと全く関係ない内容になるのだが,ご容赦されたい. 泉鏡花 といえば,「高野聖」「婦系図」「歌行燈」などの作品が有名で,その幻想的な作風で知られている.私はその時代の作家の小説が好きで,泉鏡花についても,有名なものは一度は読んだと思う.残念ながら,私は泉鏡花の熱心な読者ではないけれども,鏡花は好きな作家の一人である.その中でも「二,三羽 ―― 十二,三羽」という小品は好きで,スズメを見たときや,春にツバメが飛んでいるときなど,ふとしたはずみでこの作品のことをよく思い出す. この短編は,泉鏡花の作品の中でも異色の存在ではないだろうか.作者の家の庭に見える,十二,三羽の雀の様子を,作者が描写するという,いってみれば他愛のない内容である.またその内容も,エッセイとも言えれば,小説とも言える,奇妙な作品である.しかしながら,作者が雀たちに向ける視線は,あくまで愛情に溢れているのである. その描写をいくつか引用してみよう.この作品で,作者の妻が,ふとした拍子に子雀をつかまえて,それにざるをかぶせてしまう場面である.それに気が気でない母雀は,すぐにそのざるに飛びついてくるのである.  母鳥は直ぐに来て飛びついた.もうさっきから庭木の間を,けたたましく鳴きながら,あっちへ飛び,こっちへ飛び,飛び騒いでいたのであるから.  障子を開けたままでのぞいているのに,子の可愛さには,邪険な人間に対する恐怖も忘れて,目笊(めざる)の周囲を二,三尺,はらはらくるくると廻って飛ぶ.ツツと笊の目へ嘴(くちばし)を入れたり,さっと引いて横に飛んだり,飛びながら上へ舞い立ったり.そのたびに,笊の中の子雀のあこがれようと言ったらない.あの声がキイと聞えるばかり鳴きすがって,ひっ切れそうに胸毛を震わす.利かぬ羽を渦にして抱きつこうとするのは,おっかさんが,嘴を笊の目に,その…ツツと入れては,ツイと引くときである.  見ると,小さな餌を,虫らしい餌を,親は嘴にくわえてい...

桜の森の満開の下 (坂口安吾)

大学のとき文学部の友人が卒論のテーマとして坂口安吾を選び,そのつきあいで,坂口安吾の小説はだいたい読んだと思う.しかし,今となっては,坂口安吾の有名ないくつかの作品について,ぼんやりと覚えている程度である.ところが最近,スマートフォンや iPad などで青空文庫を簡単に読むことができる環境が充実してきていることもあって,ふたたび坂口安吾の小説を懐かしく読み返している.今回のエントリでは,坂口安吾の小説の中でも最も有名な,「桜の森の満開の下」について書いてみたい.なお,本エントリの引用はすべて青空文庫による. 「桜の森の満開の下」は,概略を述べれば,一見単純な小説のように思える.或る山に,山賊の「男」が住みつくようになった.「男」は,ある日,美しい「女」をかどわかす.二人は山で共に暮らすことになったが,それに飽きた「女」は,以前住んでいた都をあくがれるようになった.そこで「男」と「女」は都で暮らすようになったのだが,やがて「男」は,昔の山こそが自分にとって理想郷であったと思い至る.こうして「男」と「女」は再び山に戻ろうとするのだが,そこで二人はある結末を迎えるのである. もちろん,このような単純なまとめでこの小説を語ることはできない.「桜の森の満開の下」は,不思議な,そして恐ろしい小説である.我々は,この作品を読み進めていくと,次第に,ひやりとした狂気の存在を確かに感じていくようになる.そしてその狂気を生み出すものが,満開の桜の花なのである. 咲き乱れる満開の桜には,確かに狂気がある.梶井基次郎は,「桜の樹の下には」で,それを鮮烈なイメージで描き出した(本ブログのエントリ: 桜の樹の下には ).坂口安吾の「桜の森の満開の下」では,桜の狂気は別の姿をとって現われる. (註: 桜の)花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。 満開の桜の森の下は,静かなままで何の物音もしない.しかし,そ...

嵐山光三郎の本

精神科医・勝田有子の書評ブログ : 『追悼の達人』嵐山光三郎(中公文庫) http://booklog.kinokuniya.co.jp/katsuta/archives/2012/02/post_34.html この「追悼の達人」はおすすめです.あと,嵐山光三郎では,「文人悪食」という本が非常に面白かったです.これらについてはいつか本ブログで触れてみたいと思っていたので,メモがてらのエントリでした. 関連エントリ: 文人悪食 (嵐山光三郎)

子猫と犬の動画

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Kitten Snuggles and Plays with Dog Papa  というエントリより. video 36: Cute ADORABLE kitten tries to steal dog's tongue (as seen on Ellen!!) - YouTube こういう動画を見ると,可愛いので,腰が抜けそうな感じがしてくる.…というのは,大げさかもしれないけれども. そして,猫か犬を飼いたいような気がしてくる.しかし, 本ブログのエントリ で書いたように,以前飼っていた犬はもう死んでしまった.また新たに猫か犬を飼ったとしても,私の方が長生きしてしまうことだろう.これは特に猫や犬に限った話ではないが,自分や自分の家族の行く末を考えても,命とはなんだろうかと考えてしまう. 2012年6月13日追記 ぐっすり眠る子猫を起こして一緒に遊びたい子猫 より: 寝る猫と遊びたい猫(The cat which sleeps・・・) かわいい

星に願いを

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結局28日までに仕事にけりをつけることはできなかった.正月休みは,だらだらとでも仕事をしなければならないようだ.といっても,年末年始のこの雰囲気の中では気合も入らず,だらだらと仕事をするどころか,だらだらとネットを巡回しているような有様である. そんなとき,Likecool というサイトで,以下のような記事を見かけた. Honest Boy Pencil Sharpener http://www.likecool.com/Honest_Boy_Pencil_Sharpener--Office--Gear.html 画像を見ればすぐにお分かりいただけるとおり,ピノキオの鉛筆削りである.ゼペットじいさんに作られた木の人形ピノキオは,嘘をつくたびに鼻が伸びていく.上記の鉛筆削りはこの有名なエピソードに基づいたもので,鉛筆を削ってそれが短くなっていく様子が,まるでピノキオの鼻が短くなっていくようなありさまになっている.つまり,鉛筆を削っていくたびにピノキオが正直者になっていくということで,それが Honest Boy Pencil Sharpener という名前の由来である.こういう遊び心をもった文房具はとても楽しい. そしてまた,上記の鉛筆削りの記事を読んで,ディズニーの名作映画「ピノキオ」のことを思い出した.その主題歌「When you wish upon a star」 (邦題: 星に願いを) が名曲で,さまざまなカバーがあるが,以下は,私の好きなルイ・アームストロングのバージョンである. 今年は本当にいろいろなことがありましたが,これが今年最後のエントリです.本ブログを読んで下さった皆さんに感謝したいと思います.皆さんにとって,来年が実りあるものでありますように.

人生と愛について(雑感)

我ながら,気恥ずかしいタイトルになってしまった.まあ,ブログを書くということは恥をかくということでもあるから,開き直ってエントリを書いてみたい. 11月,12月と非常に忙しいのだが,相変わらず facebook はぼちぼちと続けている.特に,高校のときの同級生のグループでのやりとりはとても楽しい.そこでのやりとりの中で,友人が夫婦喧嘩をして,女房も分かってくれないといった愚痴をこぼしていて,思わず苦笑したことがあった.そして,いろいろと考えているうちに,今年起こったさまざまなことについて,思いをはせた.そのとき思ったことが,今回のエントリの動機である. 人と人はどれくらい分かりあえるものだろうか.この問いによって,我々は,自分自身が持つ孤独というものに向き合わざるを得ない.このことは古来さまざまな文学のテーマとなったが,私がその孤独ということについてときどき思い出すのは,太宰治の「駈込み訴え」という小説( 本ブログのエントリ )の次の一節である. あの人(注: イエスのこと)が,春の海辺をぶらぶら歩きながら,ふと,私(注: イスカリオテのユダのこと)の名を呼び,「おまえにも,お世話になるね.おまえの寂しさは,分かっている.けれども,そんなにいつも不機嫌な顔をしていてはいけない.寂しいときに,寂しそうな面容(おももち)をするのは,それは偽善者のすることなのだ.寂しさを人にわかって貰おうとして,ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ.まことに神を信じているならば,おまえは,寂しいときでも素知らぬふりして顔を綺麗に洗い,頭に膏(あぶら)を塗り,微笑んでいるがよい.わからないかね.寂しさを,人に分かって貰わなくても,どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが,わかっていて下さったなら,それでよいではないか.そうではないかね.寂しさは,誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて,私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり,いいえ,私は天の父にわかって戴かなくても,また世間の者に知られなくても,ただ,あなたお一人さえ,おわかりになっていて下さったら,それでもうよいのです.私はあなたを愛しています.ほかの弟子たちが,どんなに深くあなたを愛していたって,それとは較べものにならないほどに愛しています.誰よりも愛しています. 聖書の有名なエピソードを上記のように解釈しなお...