人生と愛について(雑感)

我ながら,気恥ずかしいタイトルになってしまった.まあ,ブログを書くということは恥をかくということでもあるから,開き直ってエントリを書いてみたい.


11月,12月と非常に忙しいのだが,相変わらず facebook はぼちぼちと続けている.特に,高校のときの同級生のグループでのやりとりはとても楽しい.そこでのやりとりの中で,友人が夫婦喧嘩をして,女房も分かってくれないといった愚痴をこぼしていて,思わず苦笑したことがあった.そして,いろいろと考えているうちに,今年起こったさまざまなことについて,思いをはせた.そのとき思ったことが,今回のエントリの動機である.


人と人はどれくらい分かりあえるものだろうか.この問いによって,我々は,自分自身が持つ孤独というものに向き合わざるを得ない.このことは古来さまざまな文学のテーマとなったが,私がその孤独ということについてときどき思い出すのは,太宰治の「駈込み訴え」という小説(本ブログのエントリ)の次の一節である.


あの人(注: イエスのこと)が,春の海辺をぶらぶら歩きながら,ふと,私(注: イスカリオテのユダのこと)の名を呼び,「おまえにも,お世話になるね.おまえの寂しさは,分かっている.けれども,そんなにいつも不機嫌な顔をしていてはいけない.寂しいときに,寂しそうな面容(おももち)をするのは,それは偽善者のすることなのだ.寂しさを人にわかって貰おうとして,ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ.まことに神を信じているならば,おまえは,寂しいときでも素知らぬふりして顔を綺麗に洗い,頭に膏(あぶら)を塗り,微笑んでいるがよい.わからないかね.寂しさを,人に分かって貰わなくても,どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが,わかっていて下さったなら,それでよいではないか.そうではないかね.寂しさは,誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて,私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり,いいえ,私は天の父にわかって戴かなくても,また世間の者に知られなくても,ただ,あなたお一人さえ,おわかりになっていて下さったら,それでもうよいのです.私はあなたを愛しています.ほかの弟子たちが,どんなに深くあなたを愛していたって,それとは較べものにならないほどに愛しています.誰よりも愛しています.


聖書の有名なエピソードを上記のように解釈しなおした太宰治の豊かな文学的才能もさることながら,私は,孤独というものの本質は,上記に語りつくされているように思うのである.けっきょく,我々は,それぞれ他人には理解し得ない孤独というものを抱えて生きていくしかない.そして,その孤独を表明することには,幾ばくかの偽善を伴わざるを得ないのである.そしてその孤独というものは,他人と共有できないがゆえに,愛として他者に向かっていく力となっていく.これは,私が愛する作家の一人である,福永武彦のテーマでもあった (本ブログのエントリ「愛の試み」).


そのように考えていくと,さらに,人が生きていくとはどういうことだろうかという思いが生じる.あるいは,人生にとって最も大事なことはなんだろうか.


もちろん,私はこのような大きな問に答えることはできない.それでも,いわゆる中年と呼ばれる年まで生きてきた私からすれば,このような問に対して,いろいろと思うことがあるのである.


私の人生にとって,大事なこととは何であったか.簡単にその思いをまとめることは難しい.ただ,一つ言えるのは,私の人生において大事なことの一つは,人と長い関係を続けていくことであったと思えるのである.


もちろん,人生においては,仕事も重要である.私も,自分の仕事をかけがえのないものと思っており,わずかながらも自分が成し遂げてきたことについては,それなりの感慨はある.ただ,それに対しては,満足というより,渇くような思いの方が強い.つまり,他人の評価がどうだったとしても,自らの成果に心の底から満足するということはない.


一方で,自分の中に確かな重みをもった存在として感じられるものは,人との長く続いてきた関係やつながりである.それは,家族や,友人,同僚,ネットで知り合った人々との関係である.そして,その関係というものは,長く続けば続くほど,しっかりした重みとなって自分の中に存在していくように思える.


このように,人のつながり,人が生きていくということ,愛するということについて散漫ながらも考えていくと,私は,志賀直哉「暗夜行路」にある以下の文章をよく思い出すのである.


途々(みちみち)石本が誰かの言葉として云った「若い二人の恋愛がいつまでも続くと考えるのは,一本の蝋燭(ろうそく)が生涯点(とぼ)っていると考えるようなものだ」と云うのをふと思い出した.「しかし実際そうかしら?」と彼はまた思った.(中略)そう彼が思ったのは,彼の実母の両親の関係が彼に思い浮かんだからであった.二人は愛し合って結婚した.そして終生愛し合った.「なるほど最初の蝋燭はある時に燃えつくされるかもしれない.しかしその前に二人の間には第二の蝋燭が準備される.第三,第四,第五,前のが尽きる前に後々と次(つ)がれていくのだ.愛し方は変化していっても互いに愛し合う気持ちは変わらない.蝋燭は変わっても,その火は常燈明(じょうとうみょう)のように続いていく」


暗夜行路は,志賀直哉の小説によくあるように,いろいろな意味で,読むことがしんどい小説である.それでも,志賀直哉の文章には,折に触れて思い出すような表現がよくある.上記もそうで,私の好きな文章の一つである.


結局,人が人を愛するということは,ともしびを繰り返しともしていくことに他ならないのではないだろうか.それは,恋人や夫婦という二人の間だけにはとどまらない.さまざまな人と人の間で,ともしびを受け継いでいくような行為が愛というものであると思われるのである.そのように考えていけば,人が生きていくということも,何らかのともしびを受け継ぎ、またともしていく営みに他ならないのではないか.つまり,愛するということも,人が生きていくということも,本質的には同じものであるような気がするのだ.


今年は,3月に東日本大震災があった.被害者の方には改めてお見舞いを申し上げたいと思います.そのためもあり,私も,今年一年は自分の人生について考えることが多い年でした.自分の残りの人生がどれくらいあるかはわかりませんが,自分なりに,ともしびをともしていけるような人生でありたいと祈っています.


(参照)本ブログのエントリ 東北関東大震災



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