聖書を読む - 出エジプト記読了 (その1)

暇を見つけては,こつこつ聖書を読んでいる (「聖書を読む」).忙しかったり怠けの虫が出てきたりで,毎日読めているわけではないが,それでも丸2ヶ月を超え,レビ記まで読み終えた (2005年11月11日) ところである.あまり速いペースではないけれども,それでもほぼ当初の予定通り継続して読めているのであるから,一抹の感慨はある.聖書の読破は今まで何度か試みていずれも挫折しているが,今回は成功しそうな予感がしてきたのも嬉しい.


このように継続して読めている大きな原因は,やはり,このブログで聖書の読破を宣言し,その読書記録を公開していることだろう(「聖書を読む」: http://readingthebible.blog26.fc2.com/).ブログというツールの効用を身をもって実感することができたのも,思いがけない一つの収穫である.


話がそれてしまったが,このエントリでは,2005年10月31日に読み終えた出エジプト記について,思うところを書いてみたい.なお,少し長くなりそうなので,2回に分けて書くことにした.


出エジプト記は,エホバの告げるところに従って,イスラエルの子孫(ひとびと)がモーセに導かれてエジプトを出るまでの物語(Exodus)である.創世記にもあるように,アブラハムの子孫ヨセフは,エジプト王に重用され,その一族はエジプトに住み着いた.何世代かの時を経て,このイスラエルの子孫が無視できない一大勢力となり,時のエジプト王は脅威を感じるようになる.そこで,エジプト王はその勢力をそごうとし,イスラエル民族に過酷な労役を課した.あまつさえ,イスラエル人に男子が生まれれば,それを殺すように命じた.このような時代,モーセは,幸運にもその難を逃れ,成長していく.


そうこうするうちにも,イスラエル民族の悲嘆と怨嗟の声は世に満ちていき,ついにエホバに達する.エホバは,アブラハム,イサク,ヤコブとの契約により,イスラエルの民族を救うことを決意する.そのために,エホバはモーセに告げて言う:


7. ヱホバ言たまひけるは我まことにエジプトにをるわが民の苦患(なやみ)を視(み)また彼等がその驅使者(おひつかふもの)の故をもて號(さけ)ぶところの聲を聞り我かれらの憂苦(うれへ)を知るなり 8. われ降りてかれらをエジプト人の手より救ひいだし之を彼地(かのくに)より導きのぼりて善き廣き地乳と蜜との流るゝ地すなはちカナン人ヘテ人アモリ人ペリジ人ヒビ人ヱプス人のをる處(ところ)に至らしめんとす(第3章)


このとき,エホバは自らについて以下のように述べる:


神モーセにいひたまひけるは我は有(あり)て在る者なり又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有(われあり)といふ者我をなんぢらに遣したまふと(第3章14節)


このエホバの言葉が大変興味深く思えた.人間であろうが動物であろうが植物であろうが,存在することは存在するのであるから,どんなものでも「有て在る」ものと言えば言えそうである.しかしながら,エホバは唯一の全知全能なる創造主であるから,エホバが自らを「有て在る者」というからには,「有て在る者」というのはエホバだけである.そこで,「有て在る者」というのは,エホバが体現するもの,否定できない存在,すなわち,旧約聖書で表そうとする,冒すべからざる普遍の真理(摂理とでもいうべきか)を述べているように思える.また,「有て在る」という言葉からは,その永遠性を強く感じる.もっと言えば,それには始まりや終わりというものがなく,本然としてそこに在り続けるものである.それこそがエホバではないだろうか.



(次のエントリ: https://dayinthelife-web.blogspot.com/2005/11/2.html に続く)


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