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エントリのURLについて

ウェブリブログのリニューアルに関してはだいぶ慣れたつもりでいたのですが、困惑したところがあったので、メモとテストがてらエントリにしてみたいと思います。 具体的には、ブログ記事の URL のつけ方についてです。先月、以下のようなエントリを書きました: アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス) https://dayinthelife.at.webry.info/201904/article_82deb1e9b0.html そのときは迂闊にも気づきませんでしたが、これは URL が変ですね。8月15日に公開した記事なので、従来システムならば、URL は .../201908/article_1.html のようになるはずです。これはバグかもしれないと思ったので、サポートに問い合わせてみました。 結論としては、「仕様」ということのようです。今回のリニューアルでは、エントリのURLのつけ方が変更されたとのことです。詳しくは下記 URL を参照してください: ブログ記事のURL: ウェブリブログリニューアルご案内ブログ https://how-to.at.webry.info/201905/article_32.html 簡単に言うと、記事を下書きにした時点で URL が決まるということです。うーん、いずれにせよ article_82deb1e9b0.html というのは変だとは思うのですが。 とにかく、私は、当該記事を4月の時点で下書きにしてほったらかしにして、8月になってようやく記事にしたということですかね。それは恥ずかしい。 まあ、私はこういうことをよくやります。特に書評エントリは、時間があって気分がのったときじゃないと書けないんですよね。結果として、下書きのまま放置状態になっているエントリが多くあります。反省して、なるべく早く記事にしたいと思います。 参考までに、記事の URL を(決まった範囲で)任意の文字列に変更する方法については、以下のエントリが参考になります: カスタム記事URL: ウェブリブログサポート https://support.at.webry.info/201907/article_kiji_003.html なお、いったん公開された記事の URL は変更できないということでした。そこで、本ブログの上記エントリの URL は、ずっとそのままです...

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス)

私が本書「アルジャーノンに花束を」を初めて読んだのは、随分前になる。本書は何年か前に新版となったのだが、しばらく前に、改めて読みなおしてみた。そしてそのとき、以前読んだとは違う思いをしみじみ感じた。 今から思えば、前回この小説を読んだときは、人生の喜びも悲しみも分かっていなかった。もちろんそれは、今でも分かっていないのかもしれないし、それどころか一生分からないかもしれない。いずれにせよ、その思いをエントリにしてみたい。 「アルジャーノンに花束を」の主人公は、チャーリイという知的障害を持った青年である。この物語で描かれるチャーリイの姿は、その知的障害の故に、世界にある苦しみと悲しみとを意図せずに浮き彫りにする。 チャーリイは、ストラウス博士の手術を受ける前は、社会が自分に向けてくる嘲笑や侮蔑に対して、気づくことができなかった。また、自分のせいで、両親が罪悪感や苦悩・恥辱を感じ、互いにいがみ合っていることも、チャーリイには分からなかった。しかし、チャーリイは、無意識にそれらを感じているのである。それは、普段はチャーリイの心に澱(おり)のようにたまって動かないのだが、ふとしたはずみで顔を覗かせるのだ。 それは、たとえば以下のようなときである。ニーマー教授とストラウス博士から今後の手術について問われたとき、チャーリイは、こう応じるのである(知的障害を持ったチャーリイが書き記したものなので、読みづらい): キニアン先生(註: アリスのこと)もそういっていましたけれどもぼくわ痛い目にあってもかまわないのですぼくわじょおぶだしいしょけんめやるつもりですからとぼくわいった。かしこくしてくれるならかしこくなりたいのです。 私は、チャーリイのこの言葉に、涙を抑えることができなかった。チャーリイは、自分がもし賢かったら、より愛されるだろうと無邪気に思うだけである。しかしその思いは、出てくる言葉ほどには単純ではない。そこでは、チャーリイの声にならない叫びが聞こえてくるのである。それどころか、涙が、あまつさえ血が流れているのである。 そしてさらに、私にはある思いが浮かび上がってくる。チャーリイが求めているのは、救済である。しかし、この物語では、チャーリイにとって救いとは何なのだろうか? ストラウス博士の手術は成功し、チャーリイは、高い知性を持つようになる。それは、読者にとっても分かりやすい、...

ウェブリブログのメンテナンス終了

ウェブリブログのリニューアルのための、メンテナンスが終了しました。そこで、テストを兼ねて、エントリを書いてみたいと思います。 (7/2) メンテナンス終了のお知らせ: ウェブリブログ事務局 https://info.at.webry.info/201907/article_2.html 上の記事のコメント欄では、ユーザからの反応が非難囂々で、苦笑してしまいました。まあ、何でも新しいシステムに更新するときには、ユーザの拒否反応は強いものですが。 ただ、確かに現段階ではいくつかバグがあるような気がします。たとえば、下書きを保存したときに、blockquote の部分が欠けてしまうようです。あと、Chrome で見ると、右のカラムのカレンダーで、土曜のカラムが見えません。さすがにこれはちょっとなあ。 他にもあるようですが、これは私が新システムに慣れていないせいによる、単なる勘違いの可能性もあります。 しばらくは混乱が続くと思われるので、様子見かな。 (追記: 2019年7月4日) やはりいろいろと不具合はあったようです。 (7/3)メンテナンス後の不具合修正のお知らせ: ウェブリブログ事務局 https://info.at.webry.info/201907/article_3.html (追記: 2019年7月6日) CSS を少しだけいじりました。今回の修正は気に入っています。しかし、アクセス解析は昔の形式に戻してほしいなあ。記事ごとに今までのアクセスの総数が分からないと、がっかり。

ウェブリブログのリニューアル

ウェブリブログがリニューアルするそうなので、メモを兼ねてエントリにしたいと思います。 事務局からのアナウンスは以下のとおりです: 【重要】大規模メンテナンス(6/4)およびリニューアルのお知らせ ウェブリブログ事務局/ウェブリブログ https://info.at.webry.info/201905/article_1.html ウェブリブログリニューアル後の機能のご案内 ウェブリブログ事務局/ウェブリブログ https://info.at.webry.info/201905/article_2.html 改善される機能で、ブログの見た目が変わりそうなものは、アップロード、文字数上限、デザインテンプレートなどの変更でしょうか。一方で、アクセスカウンタ、トラックバック、気持ち玉などの機能は廃止されることになりました。 多くのユーザにとっては、気持ち玉の廃止が問題のようです。上記のアナウンスにおけるコメントを見ても、人気のある機能であることが分かります。ウェブリブログの特徴であると言えるのではないでしょうか。 一方で、私にとっては、アクセスカウンタの廃止がもっとも残念ですね。記事ごとにアクセスカウンタを設定できるブログサービスは、ウェブリブログ以外にはあまりないのではないでしょうか。お気に入りの機能だったので、廃止されるとなると、淋しい気がします。 トラックバックの廃止は、時代の流れですかね。はてなも、ダイアリーからブログにサービスが移行するとき、トラックバックが廃止されました。しかし、トラックバックといえばブログの華というべき機能で、それを廃止とは、やはり淋しい気がしますね。 全体としては、ウェブリブログらしい機能がなくなっていくようなリニューアルといえるでしょうか。 こうしてみると、ブログを取り巻く環境が随分変わったなとつくづく考えさせられます。それについては今までも書いてきたので、繰り返しませんが。 まあ、リニューアルしてくれるだけでも有難いとも言えますね。あまり運営サイドから放置されても、不安になりますから(苦笑)。 私については、ブログを書くことは楽しいので、どんな状況になっても、こつこつと書き続けるつもりです。関係する皆様、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。 (関連エントリ) ブログが終わりつつある時代に (追記 2019年5月30日) 実施日は延期さ...

クリスマス・キャロル (チャールズ・ディケンズ)

いよいよ明日、元号が平成から令和に変わる。元号に意味はないと考えることもできるが、それでも一つの時代の区切りを表すものなのではないか。するとその移り変わりは、いわば生まれ変わりを連想させずにはおかない。そう考えるといろいろな物語のことが思い浮かぶが、このエントリでは、ディケンズによるクリスマス・キャロルについて書いてみたい。 と言っても、クリスマス・キャロルはあまりにも有名な小説で、今さら私などがブログに書くのも躊躇してしまう。私自身何度も読んだし、映画化も何度もされている。主人公のスクルージは、守銭奴の代名詞として英単語になっているほどだ ( https://en.wiktionary.org/wiki/scrooge )。しかし、屋上屋を架すのもブログの醍醐味であり、臆面もなくエントリにしたいと思う。 クリスマス・キャロルは、スクルージという老いた商人の改心の物語である。スクルージは、単純に言えば守銭奴で、無慈悲で冷酷な男である。造形としては、現代では典型的なキャラクターに思われるだろう。そのスクルージのもとに、過去・現在・未来を表す三人の精霊(幽霊と訳すこともある)が現れ、それをきっかけとして、スクルージは生まれ変わったかのようになるのであった。 この物語は、クリスマスがどんな意味を持つかが分からないと、真に理解できないのかもしれない。したがって、非キリスト者てある私が、クリスマス・キャロルを語ることについては、ある種の後ろめたさを感じる。それでもあえて言うならば、私は、この物語を読むとき、イエスのあの有名な言葉をいつも思うのだ: この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。 (マタイによる福音書 4:17) しかし、クリスマス・キャロルは、単にスクルージの悔恨と改心の物語ではないのではないか。三人の精霊が訪れたのち、スクルージは実質的に死んだ。そして、再び新たな生を生きた。むしろそれは、再生というより新生という言葉がふさわしい。つまりスクルージは、復活したイエスを想起させる存在なのかもしれない。そう考えると、スクルージは生まれながらの守銭奴ではなく、生きてきた環境によってそうならざるを得なかったという見方もできるだろう。 いずれにせよ、クリスマス・キャロルは、死と生の物語である。そして死に続くその生は、永遠に続くのである。 一...

ブログが終わりつつある時代に

もう旧聞に属するかもしれないが、ブログのエントリにしておきたい。 今年の2月28日に、Yahoo!ブログの終了がアナウンスされた: Yahoo!ブログ サービス終了のお知らせ https://promo-blog.yahoo.co.jp/close/index.html Yahoo! Geocities も、この3月末で終わる: サービス終了のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズ https://info-geocities.yahoo.co.jp/close/ これらのアナウンスを読むと、いろいろな思いが去来する。ブログは冬の時代と言われて久しいが、最早それも過ぎて、いよいよブログも終わりのフェーズに入ったということだろうか。長かった平成もこの四月で終わることを思えば、ブログが終わりつつあるという感慨もますます強くなる。 実際、note などのごく少ない例外を除けば、ブログを書く人は本当に減った(note は、古い意味でのブログとはまた違うような気がする。それはむしろいいことなのかもしれないが)。 昨今の状況を見てみると、本ブログをホストしているウェブリブログも、いつ閉鎖するか分からない。しかし、ウェブリログは、むしろよく頑張ってサービスを提供してくれたと言えるのではないか。仮に今サービスが終了するとしても、感謝の念しかない。 こうした、ブログを取り巻く状況に思いを巡らせると、私も、ブログに対する姿勢を変えなければと思うようになってきた。より具体的には、なりふり構っていられない、書きたいことはなんでも書かねばという、いわば焦りにも似たような思いである。現在は、ウェブリブログに限らず、どんなブログサービスも、いつ終了してもおかしくないというような状況である。今書かなければ、その機会は失われてしまうかもしれない。 たとえば、私は、ブログに書かないと決めたテーマがある。ネガティブなこと、より広く言えば、人間の闇に関することなどだ。これらは、人間というものの一つの真実であり、文学のテーマでもある。しかし、こうした内容については、このブログで触れることを意図的に避けてきた。それは、誤解を招くのを恐れず言えば、私がこのブログで扱っていきたいテーマとはそぐわないからである(これついてはたびたび書いてきたが、たとえば「 ブログ開設12周年と,今後ブログに書いていきたいこと 」...

人生論ノート (三木清)

「人生論ノート」を初めて読んだのは、高校生くらいのときだったろうか。おそらく、ある世代には本書が必読書とされていたという、そんな話を小耳にはさんだのが、読むきっかけだったように思う。 しかし、ここに書いてある思想は、当時の未熟な私には響いてこなかった。必読書という言葉の押しつけがましさにも、反感を覚えたような記憶がある。 そんな記憶さえおぼろげになるくらい、昔の話である。時間がたつのは早いものだ。当時と比べれば、私は成熟したところもあれば、衰えたところもあるだろう。少なくとも言えることは、今の私は、長く世間の塵埃にまみれてきたということだ。そのせいなのか、改めて「人生論ノート」を読み返してみると、琴線に触れることが多くある。それは、若いころの私には思いもつかないことであった。 たとえば、「希望について」という章がある。そこには、以下のような文章がある:  人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は、運命と称している。もし一切が必然であるなら、運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら、運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっているゆえに、人生は運命なのである。  希望は運命のごときものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら、希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら、希望というものはまたあり得ないであろう。  人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって、生きていることは、希望を持っていることである。 私は、戦慄しながらこの文章に共感する。 我々は、成功したときは自らの実力を誇るだろう。一方で、失敗したときは、その原因を不運に帰するものである。しかし、ありていに言えば、いずれの場合も運によるところが大きいのだ。そして、そのような積み重ねが運命である。我々は、こうして運命の下で生きていくしかないのである。 では、我々は、計り知れない運命に翻弄されながら生きていくしかないのか。人間とは、暴力と見まがうほどの運命の前では無力な存在でしかないのか。 私は、この問いに対して、そのとおりとしか言えない。しかし、荒れ狂う運命の波間に、希望というものが確かに存在...