ケストナーの母の読書法

私はいわゆる児童文学を読むのが好きで、このブログでもいくつかを紹介してきた(野ばら (小川未明)チョコレート戦争 (大石真)等)。今は忙しく、児童文学どころか普通の小説すらなかなか読めないのが残念である。

そんな状況をしばらくかこっていたのであるが、去年たまたまケストナーによるある本を読んでいたところ、長い間探していた文章をとうとう見つけることがあった。世の中、何があるかは分からない。そこで、記録のためエントリにしておきたい。


そのとき私が読んでいた本は、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」で、ずっと探していた文章とは、以下のものである:


立ち止まって考えたこと その5 ― 知りたがりについて


 ぼく(註: ケストナー)の母の、長編小説の読み方は、こうだ。まず、最初の二十ページを読んだら、こんどは終わりのところを読む。それから、まん中へんをぱらぱらとのぞいて、ようやく本腰を入れて、最初から最後まで読むのだ。どうしてそんなことをするかって?  その小説の終わりがどんなか、知っておかないと、おちおち安心して読めないのだ。おちつかないのだ。みんなは、そんなくせをつけてはいけないよ!  万が一、もうそんなくせがついていたら、やめること。わかったね?


  これはつまり、クリスマスの二週間まえに、どんなプレゼントをもらえるのか知りたくて、母さんのたんすをひっかき回すようなものだ。そうしたら、プレゼントをくばるからおいで、と言われたときには、みんなはもうすっかり知っていることになる。そんなの、つまらなくないか?  みんなは、プレゼントを見て、びっくりしなきゃならないわけだけれど、なにをもらえるかは、とっくにわかっているのだ。父さんや母さんは、どうしてみんなが心からうれしそうじゃないのだろうって、思うだろう。クリスマスは、みんなにとっても、それから母さんや父さんにとっても、気の抜けたものになってしまうだろう。

 

   「点子ちゃんとアントン」(エーリッヒ・ケストナー、岩波少年文庫)



上記の「立ち止まって考えたこと」という文章は、「点子ちゃんとアントン」にあるいくつかの挿話で、本筋のストーリーとは関係ない話である。そして「その5」の内容は、ケストナーの母の読書法に関するもので、まあ変わった読み方とはいえるものの、こういう読み方をする人は他にもいるかもしれない。特に近頃話題になる、「タイパ」が気になる若い人などは、このように本を読むこともあるのではないだろうか。いずれにせよ全体として、それほど強烈な印象を与える話とは思えない。


そのようなちょっとした話が、どうしてこんなに記憶に残っているのか。

正直言うと、よく分からない。しかし、よほど私の琴線に触れたということは事実なのだろう。実際、折に触れてケストナーの本を読むとき、私は上記の文章を探していた。しかし何か分からない理由で「点子ちゃんとアントン」を読まなかったせいで、その文章を長い間見つけられなかったのであるが。


私はずっと、上記文章は、「飛ぶ教室」「エーミールと探偵たち」「ふたりのロッテ」のどれかにあると勘違いしていたのだ。言い換えれば、私は、ケストナー作品はこの三冊しか読んでないと勘違いしていた。この三冊は今まで繰り返して読んできたのであるが、それでは上記文章を見つけられないのも当然である。


去年「点子ちゃんとアントン」を読んでいて、内容も含め、いろいろなことを思い出した。この本を読んだのは中学生のころ、自宅にいたときであった。我ながら、思ったよりいろいろな本を読んでいて、感心するほどである。まあ、その本を読んだことすら覚えていないようであれば、読書という行為自体が私にとって有用だったかどうかは分からない(苦笑)。


それにしても、小説家や人の言葉というのは、予想できないほどの影響を人に与えるものだとつくづく思う。ケストナーも、自分の書いた作品(少なくともその一部)を何十年も覚えていて、影響を受けてきた読者がいるとはあまり信じられなかったかもしれない。そして立場を変えて考えてみれば、今まで私もそのような影響を与えた可能性はある。それは、すべてがいい影響ではなかっただろう(そのことについては以前も書いた)。善かれ悪しかれ、世の中というものは、そうして成り立っている。そう思うと、何か戦慄のような思いを感じざるをえないのである。




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