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ブログ20周年最後の日の更新

今年は、本ブログが開設してから 20 周年である(本ブログが開設したのは2005年7月くらいであるから、正確に言うと、2025年6月くらいで20周年で、今はもう20年と半年くらい)。しかし、20周年にも関わらず、忙しさのあまりに、本ブログはまったく更新していない。開店休業状態。今年はさすがに恒例の20周年記念エントリを書こうと思っていたのだが、それすらできなかった。 とにかく時間がないのである。もはや、facebook, twitter(現X)、note ですらまともに更新できていない。うーむ。 しかし20周年なのにまったく更新できないのもさびしい気もするので、アリバイがわりに、メモのような内容を一つエントリにしてみたい。 以下のようなエントリがあり、思うところがあった: 昔ひどいイジメをしていた人が家庭を持って、職場では評価されているのを見ると、神様なんていないんだなって思う話→「人生不公平しかない」「必ず報いがある」 - posfie https://posfie.com/@taimport/p/K1eDB8k そのコメント↓ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@taimport/p/K1eDB8k そして、上記エントリとは趣旨が違うかもしれないが、私も同じように悩むことはあるのである。それを簡単にいえば、以下のようになるだろうか。 我ながら、随分と馬齢を重ねてきた。そして、だからこそしみじみ分かるのだが、世の中は、予想もできない理由で、うまくいかないことが本当に多い。なんでかなあ。ため息がでてくる。 自分としては、必死にやってきたつもりだった。しかし、目標からだいぶずれ、いつのまにかこの年になってしまったというのが正直なところだ。 結論として言えるのは、人生は生きづらかったということだ。むしろ生きづらいことこそ人生の常態といえるのかもしれない。 ましてや昨今の世界情勢は、不安定さを増すばかりである。また日本に限っても、大地震の恐怖は消えることはない。そして、ここには書けないが、私にはプライベートでの悩みは尽きない。とにかく不安と二人三脚で、生きてきたといえば大げさだろうか。 私の悩みなど大したことはないかもしれないが、それでもこのようにして生きていれば、頭をもたげてくる思いはある。つまり、神はいるのか、いないの...

人を好きになる経験について

以下の記事を読んで、思うことがあったので、エントリにしてみたい。 人を好きになる経験がないと何がいけないのか https://anond.hatelabo.jp/20240509105701 そのコメントは以下↓ [B! 増田] 人を好きになる経験がないと何がいけないのか https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240509105701 人を好きになるということだが、好きになる対象は物でも動物でもかまわない。そこで以下では、「人」と書いてあっても適宜読み替えていただきたい。 さてここで本題だが、人を好きになるとはどういうことか。 人を好きになるということの本質を、言葉で正確に定義することは難しい。そこで凡百の言説を含め、今までさまざまなことが言い尽くされてきた。 このような、いわば議論百出のような状況になっているのは、人を好きになるということが、人生の歩みに基づいた行為だからではないだろうか。人が生きるという有りようがさまざまであるからこそ、人が好きになるという営為もさまざまでありうる。 そうであるとすれば、私にとって、人を好きになるということとはどういうことか、それを書いてみるのも意味があるのかもしれない。 私にとって、人を好きになるということは、説明しがたい、不思議な体験である。別の言葉で言えば、その体験は、どうも人間離れしているようにしか思えないのである。 もちろん、人を好きになるときの高揚感、興奮状態というのは、普段と違う状態ではある。だが私はそういうことを言っているわけではない。 どうも我ながら言語化が下手でもどかしいのであるが、自分の思いをまとまりなく書いてみると、以下のようになるだろうか。 私はときどき思うのである。この薄汚れた灰色の世界、時には地獄としか思えないこの世の中で、私は何ができるだろうか。究極的には、何もできない。そしていろいろなものに蓋をして、絶望すらごまかしながら、生きていくしかない。そうして人生というものがいつかは終わるのだろう。 そのような世界で、人を好きになることこそ、人にできる最後の祈りでないだろうか。そしてそれは、神からの祝福であるように思えるのである。だからこそ、人を好きになる、人を愛するときのみ、人は神になることができるのではないだろうか。 そのように考えてきた...

ケストナーの母の読書法

私はいわゆる児童文学を読むのが好きで、このブログでもいくつかを紹介してきた( 野ばら (小川未明) 、 チョコレート戦争 (大石真) 等)。今は忙しく、児童文学どころか普通の小説すらなかなか読めないのが残念である。 そんな状況をしばらくかこっていたのであるが、去年たまたまケストナーによるある本を読んでいたところ、長い間探していた文章をとうとう見つけることがあった。世の中、何があるかは分からない。そこで、記録のためエントリにしておきたい。 そのとき私が読んでいた本は、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」で、ずっと探していた文章とは、以下のものである: 立ち止まって考えたこと その5 ― 知りたがりについて  ぼく(註: ケストナー)の母の、長編小説の読み方は、こうだ。まず、最初の二十ページを読んだら、こんどは終わりのところを読む。それから、まん中へんをぱらぱらとのぞいて、ようやく本腰を入れて、最初から最後まで読むのだ。どうしてそんなことをするかって?  その小説の終わりがどんなか、知っておかないと、おちおち安心して読めないのだ。おちつかないのだ。みんなは、そんなくせをつけてはいけないよ!  万が一、もうそんなくせがついていたら、やめること。わかったね?   これはつまり、クリスマスの二週間まえに、どんなプレゼントをもらえるのか知りたくて、母さんのたんすをひっかき回すようなものだ。そうしたら、プレゼントをくばるからおいで、と言われたときには、みんなはもうすっかり知っていることになる。そんなの、つまらなくないか?  みんなは、プレゼントを見て、びっくりしなきゃならないわけだけれど、なにをもらえるかは、とっくにわかっているのだ。父さんや母さんは、どうしてみんなが心からうれしそうじゃないのだろうって、思うだろう。クリスマスは、みんなにとっても、それから母さんや父さんにとっても、気の抜けたものになってしまうだろう。      「点子ちゃんとアントン」(エーリッヒ・ケストナー、岩波少年文庫) 上記の「立ち止まって考えたこと」という文章は、「点子ちゃんとアントン」にあるいくつかの挿話で、本筋のストーリーとは関係ない話である。そして「その5」の内容は、ケストナーの母の読書法に関するもので、まあ変わった読み方とはいえるものの、こういう読み方をする人は他にもいるかもしれ...

ブログ開設18周年と、たゆまず歩いていくということ

年末なので、恒例のブログ開設記念エントリを書いてみたいと思います。やはり一年に一度はこのエントリを書かないと、どうも落ち着かないので。まあこの手のエントリを書くのは Blogger では初めてなので、ご容赦ください。と言っても、来年以降も書くつもりですが(苦笑) それで本題ですが、このブログは、(今はない)ウェブリブログに 2005 年 7 月に開設し、そのウェブリブログの廃止にともなって、2022 年 8 月に Blogger に移転しました。ほとんど更新できていませんが、まだ今でも続いていると強弁することにすれば、かれこれ 18 年続いていることになります。 18 年。18 年か―。 民法改正があったので、18 歳は成年年齢になります。このブログが始まった年に生まれた人は、もう立派な大人なのです( 法務省:民法(成年年齢関係)改正 Q&A )。18 年という時間は、十分に長いということが言えるでしょう。 それくらい長い間なのだから、この 18 年、私にもいろんなことがありました。個人的のことはネットに(なるべく)書かないようにしているので、読者の方には意味不明でしょう。しかし私には、いろいろあった当時のエントリを読むと、胸をつかれることもあるのです。 それやこれやでこの 18 年を思い返してみると、どうしても人生ということに思いをはせてしまいます。人が生きていると、本当に、いろいろなしがらみや悩みが増えていきます。生きていくことは大変なことだと痛感することも少なくありません。そういうとき、太宰治の文章をよく思い出すのです。 鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋にいれられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。                  「一日の労苦」(太宰治) 重りを体に鎖でつけられ、それを引きずりながら生きていく。それが人生ということなのでしょう。 そしてまた、漱石の手紙を思い出すのです。 牛になることはどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老猾(ろうかい)なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕(はら)める事ある相の子位な程度のものです。あせっては不可(いけま)せん。頭を悪く...

40, 50 代の趣味

 こんな記事があった: 40.50代の人の趣味ってなに? https://anond.hatelabo.jp/20231207095703 その記事に対する、はてなブックマークのコメント: [B! 趣味] 40.50代の人の趣味ってなに? https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231207095703 私がちょうどこの世代なので、考えさせられる。 私も以前は、時間があれば、仕事以外の分野の勉強(歴史、文学)、音楽(ピアノ、ギター)、料理、旅行、映画、等々を趣味にしたいと考えたことがあった。しかし今は、そんなことは考えていない。 私に今あるのは、時間がないことに対する、ひりつくような焦燥感である。それは、何をしてても頭をはなれることはない。したがって、趣味に没頭することが難しいのである。 これは私と同世代の人間なら共感してくれると思うのだが、この年齢になると、そろそろ人生の終わりが視界の遠くに入ってくる。人生の残り時間を、意識するようになってくるのである。 そうして、今まで私が過ごしてきた時間と、成し遂げた業績を考え、残りの人生でどれくらいのことができるのか想像してしまうのだ。 残念ながら、私は天才ではなかった。そして、残りの人生で、過去の天才が成し遂げてきた業績と同様のものを成し遂げるのも難しいだろう。では、私はどこまでできるのだろうか。 まあ、そうした思いは、典型的な 中年の危機 の一種なのだろう。我ながら、凡庸であることに苦笑せざるを得ない。 しかしながら、目標達成にむけて、私なりに進歩しているのは実感している。特にここ4年くらいは、コロナ禍のせいで、(普段の仕事はあるが)自分の目標達成に専念することができた。私は引き続き、まっすぐに進んでいきたいのである。言い換えると、私の人生をかけるつもりなのである。そこで、私は、上に書いたような趣味を新たに始めることを、あきらめることにした。 正直言えば未練のような思いはあるが、人生の残り時間が限られていることを思えば、何かを捨てるということは避けられないだろう。 そして、時間さえあれば、自分の目標達成に専念していきたい。もう私には時間はないし、自分の人生に後悔したくはない。 また、この目標は、私の仕事の一環でもある。その仕事には定年があるが、定年後も...

よい教師とは

ブックマークを整理しているときに、良い教師について、ふと考えた。そのきっかけは、以下の記事(2023年5月20日)である。 教授時代の学生の評価は「最低」 日銀総裁が語った「伝える難しさ」:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR5M7642R5MULFA02V.html     日本銀行の植田和男総裁が19日、東京都内で講演し、総裁就任前に教授を務めていた共立女子大(東京都)で、学生からの評価が「最低」だったと明かした。そのうえで、複雑さを増している日銀の金融政策や経済環境を念頭に、「それぐらい分かりやすく伝えることは難しい」と語った。 (中略)  19日の講演で植田氏は、共立女子大での自分の講義に対する学生の評価を紹介した。「ダラダラ話しているばかりで何も分からない」という声のほか、「授業料を返してほしい」といった厳しいものもあったという。 植田氏は東大教授等を歴任していることから、研究上では大きな業績を上げたのだと思われる。しかしそれでもその講義は、学生からの評判は必ずしも芳しくはなかったようだ。 その一つの理由として、よい研究者はよい教師とは限らないということが挙げられるだろう。 そうした点については、以前以下のようなエントリを書いた: 博士号取得者が高校教師になるということ https://dayinthelife-web.blogspot.com/2013/03/blog-post_27.html 今日のエントリは、もう上記エントリで言いつくした内容の焼き直しである。それでもあえて屋上屋を架してみたい。 世間一般では、学問について誤解があるようだ。その背景にあるのは、普通の人が学問についてイメージする内容が、高校レベルで止まっているということである。大学進学率が50%を超えた現在になってもそれは変わらない。 高校まで学ぶ内容については、文科省が学習指導要領を定めている。その結果、検定を受けた教科書があり、 教師用指導教本・資料がある。そして大学入試まで、その指導要領に基づいた試験が行われる。いわば舗装された道ができているのである。 一方で、大学以降の学問には、そのような統一的な道はない。そこにあるのは多様性であり、時として無秩序である。なぜならば、世界と人生がそうだからである。本来我々はその...

Twitter の終わり

twitter が休眠アカウントを削除するという報道があった。 マスク氏 ツイッター “休眠アカウント” 削除進めると表明 | NHK | IT・ネット Twitter to remove idle accounts, archive them | Reuters twitter は民間企業なので、休眠アカウントを維持していくコストを無視できないという事情はあるだろう。私はそれを責めるつもりはない。私はツイッターに何か課金をしているわけでもないので、その資格もない。 しかし、結果として、もう亡くなった方のアカウントも削除されていくだろう。そういうアカウントは、亡くなった方の生きていた証として大事に思われていたことも多かったのではないか。 私自身、もう亡くなったある方と相互フォローをしていて、それが私にとっても大切な思い出となっていた。また、それが、私が twitter を続けている理由の一つでもある。 もう15年くらいになる。相互フォローになったのは、私が twitter を始めた年だった。そしてそのアカウントも、休眠アカウントとして削除されるのだろう。 少ないながらも、私と10年以上相互フォローしてくださる方もいらっしゃり、それは非常にありがたく思っている。どうもありがとうございます。一方で、休眠アカウントの削除が実施されたときは、心に穴が開いたような気持になることだろう。

イエスは地面に何を書いていたか

しばらく間があいてしまったが、本ブログのエントリ「 ChatGPT とヨハネによる福音書 」の続きを書いてみたい。 先のエントリ に書いたように、ヨハネによる福音書に、イエスが地面に何かを書いていたという場面がある。しかし今となっては、イエスが書いたその内容は知られていない。現在、その内容についてはいくつかの説があるのだが、私は、それらの説にしっくりこない気持ちを抱いていた。一方で、私なりに思うところもあるので、改めて自分の思いをエントリにまとめてみたい。それは、識者にとって失笑される内容かもしれないが、恥をかくのを気にしていたらブログなどとても書けない。ので、気にしないことにする。 前置きが長くなったが、最初に、イエスが地面に書いていた場面を簡単に説明しよう。以下では手抜きだが、ChatGPT による説明を再掲することにする: この場面は、ファリサイ人たちが罪を犯した女性を持ってイエスの前に連れてきて、イエスに「この女性は、姦淫の現場で捕まりました。モーセは、このような女は石打ちにして殺せと命じていますが、あなたはどう思いますか?」と問いかけたときに起こりました。イエスは、何も言わずに地面に指で何かを書き始めました。その後、ファリサイ人たちがイエスに対して質問を繰り返すと、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」と答えたとされています。 この後、イエスは「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた」(ヨハネ8:8) この場面では、ファリサイ人が、イエスを陥れようとしているのである(ヨハネ8:6)。当時、この女を石打ちにすることもしないことも、イエスにとっては困難な状況であった。そしてイエスは、ファリサイ人の問いには答えず、地面に何かを書いて、その間に上記の有名な言葉を語ったのであった。 ここで印象的なのは、やはり地面に何かを書いていたイエスの振舞いである。あまりに奇妙で、唐突ではないだろうか。単に上記のセリフ(「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」)を言うだけでこのエピソードは完結するのに、なぜわざわざ地面に何かを書く必要があったのか。そして、イエスは何を書いたのか。 当然、イエスは、自らを陥れようとしたファリサイ人の悪意を完全に見抜いていただろう。そこで、もしイエスが私のような凡夫であれば、世の中馬鹿ばかりと絶望して...

大江健三郎死去

もう3週間前のニュースになってしまったが、時代の記録としてエントリにしておきたい。 大江健三郎が、今年3月の初めに亡くなった。 ノーベル文学賞 大江健三郎さん 死去 88歳 | NHK | 訃報 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230313/k10014006861000.html 私も、以前大江健三郎についてエントリを書いたことがある。もう10年前になるのか。 大江健三郎について https://dayinthelife-web.blogspot.com/2012/08/blog-post.html 上記エントリでは、大江健三郎の作品の書評をいつか書いてみたいなどと偉そうなことを書いていたが、忙しさにかまけて結局できなかった。このブログでは、そんなことばかりであるけれども。 大江健三郎の傑作としてネットで挙げられているのは、「万延元年のフットボール」が多かったようだ。しかし私は、本ブログのエントリとしては、やはり「静かな生活」について書いてみたい。ただ軽い気持ちではエントリにできないため、時間が経つままになってしまっていた。 私の知識では、大江健三郎の作品を深く論じることはとてもできない。しかしそのいくつかの作品は、私の読書の経験の中で、かけがえのない存在となっている。 あらためて、お悔やみを申し上げます。

ChatGPT とヨハネによる福音書

この5年くらいか、AI, 特に深層学習は世界的に大きく盛り上がっているトピックとなっている。私自身は深層学習に詳しいわけではなく、世間の流行を遠目に眺めていた。さすがに今から参戦したとしても、何周遅れになることやらと思えば乗り気にならないのも仕方がない。 このまま深層学習と縁のない人生かなと思っていたのだが、すまじきものは宮仕えというたとえもあるように(苦笑)、諸般の理由で深層学習に手を出してみようかということになった。ただし、今のところまだ勉強の段階である。 その勉強については、今の時代にあったやり方を試してみたいと思っており、(業務と関係ない範囲で)また本ブログで簡単に触れるかもしれない。 それでようやく本題に入る。今話題の ChatGPT (すでにGPT-4も発表された)についてもいろいろ試しているところであるが、その際、以前から疑問に思っていた、ヨハネによる福音書に関するある記述を ChatGPT に質問しようと思い立った。そのやりとりを以下に示す。Q とあるのは私が入力した内容で、A とあるのは ChatGPT からの回答である: Q. ヨハネによる福音書で、イエスは地面に何か書いていたという場面がある。イエスは何を書いていたのか? A. ヨハネによる福音書8章6節から8章8節にかけて、イエスが地面に書いたとされる場面が描かれています。 この場面は、ファリサイ人たちが罪を犯した女性を持ってイエスの前に連れてきて、イエスに「この女性は、姦淫の現場で捕まりました。モーセは、このような女は石打ちにして殺せと命じていますが、あなたはどう思いますか?」と問いかけたときに起こりました。イエスは、何も言わずに地面に指で何かを書き始めました。その後、ファリサイ人たちがイエスに対して質問を繰り返すと、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げるがよい」と答えたとされています。 この場面について、具体的に何を書いたのかについては、聖書には明記されていません。また、歴史的な証拠も残っていないため、イエスが地面に何を書いたのかは、諸説あります。ただし、この場面は、イエスが知恵や慈悲深さをもって、人々を導く教えを示す、象徴的な物語として語り継がれています。 Q. その諸説をリストしてほしい A. イエスが地面に何を書いたのかについては、聖書には明示されていないため、様々な...

LaTeX メモ: Emacs 28.1 以降のバージョンにおける AUCTeX の設定

最近 PC を新調したとき、emacs の設定変更が必要になったことがあった。取り急ぎ、AUCTeX まわりに限定してここに記録しておきたい。ここで、emacs と AUCTeX については、Emacs 28.1(現時点での最新バージョンは 28.2), AUCTeX 13.1.4 にアップグレードした。 その後、AUCTeX で LaTeX ファイルを C-c C-c しようとすると、 Latex: problems after [0] pages というエラーが出て、コンパイルに失敗する。具体的には、以下のような症状である。 auctex - Emacs gives me  " Latex: problems after [0] pages "  - TeX - LaTeX Stack Exchange https://tex.stackexchange.com/questions/232273/emacs-gives-me-latex-problems-after-0-pages その解決策は、上記ページを参考にして、 (add-hook 'LaTeX-mode-hook   (lambda ()      (add-to-list 'TeX-expand-list               (list "%(extraopts)" (lambda nil TeX-command-extra-options))))) という一文を、.emacs.el などの初期化ファイルに書いておけばよい。以上。 … ということでエントリが終わってもいいのだが、emacs の初期化についても多少調べたことがあるので、ついでにメモしておきたい。 emacs の初期化ファイル(ここでは .emacs とする)に上記のような設定変更を行い、いつものようにバイトコンパイルした。すると、28.1 からは、以下のような warning が出るようになったのである(ここでは私のホームディレクトリを " /home/taro/ " とした): Warning (comp): Cannot look-up eln file as no source file was...

新しいブログの始まり: 最初の一歩

ウェブリブログから Blogger への移転が完全に終わりました。現時点でのページビューは 3,646 です。 いよいよこれが新しいブログの始まりです。と言っても、ブログの更新は相変わらずあまりできないでしょうが…。それでも新しいことを始めるのは心機一転、心が躍るような思いがしますね。 皆様今後ともよろしくお願い申し上げます。 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 コリント人への第二の手紙 5:17

ブログ17周年と「「晩年」に就いて」、そしてブログの終わり

これが、ウェブリブログで最後のエントリです。最後なので、恒例のブログ開設記念エントリも兼ねてみたいと思います。 以前からアナウンスがあったように、ウェブリブログは2023年1月31日をもって終了します。 ウェブリブログサービス終了(2023/1)のお知らせ: ウェブリブログ事務局 https://info.at.webry.info/202201/article_2.html そこで 先日のエントリ に書いたように、Blogger に移転します: Day in the Life (webry) https://dayinthelife-web.blogspot.com/ ただ、システムの違いから、Blogger に過去のコメントを移行することはできませんでした。せっかく本ブログにコメントしてくださった皆様には本当に申し訳ございません。どうかご了解いただけますと幸いです。 今後、あと一週間くらいで、Blogger へのリダイレクトを設定します。そうすると、本ブログはもう一切読めなくなると思います。しかし、過去のすべてのエントリは、上記 Blogger のブログで公開しています。 … では改めて、本ブログについて振り返ってみたいと思います。 本ブログに初めてのエントリを投稿したのは、2005年7月でした。それから現在まで、17年以上にわたって、ブログを続けてきました。残念ながら、頻繁には更新できませんでしたが…。 執筆時点での本ブログの記録は、以下のとおりです: 公開されたエントリ … 256本 下書き … 63本 ページビュー(PV) … 763,958 我ながら記事数は少なく、果たしてこれでブログを継続しているといえるのかと自信がなくなるほどです(苦笑)。しかしPVは、非常に多いとは言えないものの、当初私が予想したものよりは多いものでした。どんなきっかけであれ、私のエントリを読まれた皆様には感謝したいと思います。 また私は、ブログ開始当初から、細く長く続けていくことを方針としました。これは、私の人生における優先事項はリアルでの仕事とプライベートであり、ネットでの活動をメインにできなかったからです。そのため、あまり注目されたくなかったし、また、ネットの話題(特に炎上しているもの)には距離を置こうと考えていました。 結果として、尖った視点を持ったエキセントリックな内容は...

今年の災害

ロシアによるウクライナへの侵攻は自然災害ではないが、まだ 8 月なのに、今年は例年と比べて災害(特に豪雨による)が多いように思う。地球温暖化のせいだろうか。 直近に限っても、以下のような災害があった: 青森や秋田など 東北の記録的大雨 【被害・影響まとめ】 | NHK | 気象 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220810/k10013763311000.html 〈現地写真多数〉「今まで、こんなこと一度もなかったのに…」豪雨被災者がこぼした驚きと悲しみが入り混じった“悲痛な心情” | 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/56639 Seoul flooding deaths: South Korean capital vows to move families from 'Parasite'-style basement homes - CNN https://edition.cnn.com/2022/08/11/asia/seoul-flooding-banjiha-basement-apartment-climate-intl-hnk/index.html また、以下の記事は個人的にも記録しておきたい: 海に沈みゆく巨大都市ジャカルタ、首都移転で人々はどうなる? 写真10点 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/22/080300059/ 心の整理つかない」「悪夢」 旦過市場復興の矢先、悲嘆に暮れ | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20220811/k00/00m/040/154000c 以上のような出来事を記録しておこうと思ったのは、2018 年に書いた本ブログのエントリが念頭にあったからである: 平成30年の出来事 https://dayinthelife-web.blogspot.com/2018/07/30.html 2018 年は、西日本豪雨災害が起きた年であるとともに、私にとっても大変な年であった。人生が変わってしまうような出来事が起きた年であったのである。ただ、そのことはネットには書けないだろう。それにしても上記...

Blogger(Google)に移転します

先日のエントリ に書いたように、ウェブリブログが終了します。しかし、このブログは頻繁に更新していないものの、私自身はこれからもブログは続けていきたいと思っています。そこで、移転先を決めなければなりません。 その移転先ですが、「Blogger」(Google のブログサービス)に移ることにしました。移転先ブログの情報は、下記のとおりです: Day in the Life (webry) https://dayinthelife-web.blogspot.com/ Blogger を移転先とした理由は、長く続くと思われるブログサービスにしたかったためです。ブログを移転する作業は面倒くさくてたまらない。できる限りもう移転したくないのです。 Seesaa ブログであれば移行作業は簡単となっているようですが、その Seesaa ブログでも終了しないとは限りません。そもそもウェブリブログを選んだ理由も、NEC の子会社である Biglobe のサービスなら、ブログはずっと続くだろうと思ったからでした。といっても、ウェブリブログはかれこれ20年続いたので、十分といえば十分なのでしょうが。 もちろん Google はこれまでにさまざまなプロダクトを中止してきた会社ではあるので( Googleが中止してきたプロダクトやサービス一覧 )、Blogger だっていつまで続くかは分かりません。しかし、Blogger が終了したら仕方ありません、もうあきらめます。その先はまだ考えてませんが…。というより、もう考えたくありません(苦笑)。 なおブログ移転ですが、ブログ気持ち玉が移行できないのは仕方ないですが、コメントやトラックバックの移行も諸般の理由で断念しました。こんな過疎ブログにわざわざコメントしてくださった方々には本当に感謝しておりますが、どうかご容赦いただけますと幸いです。コメントなどのデータは、個人的に大事に保存しておきます。これに懲りず、ブログを移転しても、今後ともよろしくお願い申し上げます。

Blogger での最初の投稿

 ウェブリブログが終了するので、移行します。

ウェブリブログがサービス終了

ウェブリブログが、2023年1月31日にサービスを終了することが発表された: ウェブリブログサービス終了(2023/1)のお知らせ: ウェブリブログ事務局 https://info.at.webry.info/202201/article_2.html ついに。 詳しくは17周年エントリに書くとして、取り急ぎエントリにしておきます。

人類が滅びるとき

以下のような記事があった: 人類史、迫る初の人口減少 繁栄の方程式問い直す 人類の爆発的な膨張が終わり、人口が初めて下り坂に入る。経済発展や女性の社会進出で、世界が低出生社会に転換しつつある。(以下略) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA021H00S1A600C2000000/ 上の記事から引用: 世界人口は2064年の97億人をピークに減少する――。米ワシントン大は20年7月、衝撃的な予測を発表した。 50年までに世界195カ国・地域のうち151が人口を維持できなくなる。国連は「2100年に109億人となるまで増え続ける」と試算していたが、出生率が想定以上に落ち込む見通しだ。 こういう記事を読むと、いつも考えてしまうことがある。 人類が滅びるのは、戦争とか災害などが原因ではなく、少子高齢化のせいかもしれない。それは分からない。そして今の人類が滅びた後は、また新たな人類が誕生し、文明が発展していくが、いつかは滅びていく。宇宙の気も遠くなるような時間の中では、このようなことが繰り返されているのかもしれない。 そのように考えていくと、いつも思うのだ。一人の人生とは、何とちっぽけなものなのだろう。 それでも人は生きていかなければならない。そして人生とは、つまるところ、自分が納得できるかどうかなのではないか。 いずれにせよ、人類が滅びようが滅びまいが、それに比べれば一人の寿命ははるかに短い。そして、人間という存在がささやかなものであるからこそ、祝福されており、また、神の恵みがあるようにも思えるのである。

答のない問いに答えるということ

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ブログのリハビリ期間である。 二カ月以上前に、以下のような記事があった: WEB特集 “答えのない教科書” のぞいてみませんか? | 教育 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210401/k10012949721000.html それで思うところがあったのでブログを書こうと思ったのだが、バタバタしているうちに時間も過ぎてしまい、エントリを書く気力も失せてしまった。ブログに限らず、鉄は熱いうちに打てということを痛感する。 そのエントリを書く気がなくなったが、せっかくなので簡単にまとめておくと、答のない問いに答えるということは、結局、人生を選択するということと同じ意味を持つのである。 T2 Trainspotting (2017) - Choose Life Scene (6/10) | Movieclips - YouTube 選択ということについては、次のエントリでまとめて書いてみたい。

生存確認エントリ

ブログをさっぱり更新してませんが、元気に生きてます。でも、こんなに更新しない年は初めてかな。 ブログに飽きたということは全くなくて、書きたいことは山ほどあります。ただ、このブログは丁寧に書きたいという気持ちが強くて、なのにまとまった時間が取れないと、ついつい気分が億劫になってしまうという感じでしょうか。なんだかんだで今年は忙しいし。 時間ができたら、再開したいと思います。すみません。短いエントリならちょこちょこ書くかも。